金史卷二十 志第一 天文

天文志の趣旨

  • 伏羲が仰いで観、俯して察し、黄帝は日を迎えて策を推し、重黎は天地を序け、堯は日月星辰を暦象し、舜は七政を斉え、周武王は箕子を訪ね洪範を陳べ五紀を協せ、天の道を観ることが備わった。易に「天は象を垂れ吉凶を見す、聖人はこれに象る」とあり、ゆえに孔子は魯史によって春秋を作り、日星風雨霜雹雷霆については皆変を書いて常は書かなかった、天道を明らかにし人事を験するためである。秦漢以下、治日(暦の的中)は少なきを患い、陰陽の愆違・天象の錯迕はいずれの代にもないことがなかった。
  • 金は百十九年の間に日食四十二、星辰・風雨・霜雹・雷霆の変はその幾ばくかを知らない。金の九主のうち世宗より賢なる者はなく、その二十九年の間になお日食十一、日珥・虹貫は四五あった。しかし金の世を終えるまで慶雲が日を環ったのは三度で、皆世宗の世に見られた。羲和の後、漢には司馬、唐には袁・李があり皆代々天官を掌ったのでその説は詳しく、かつ天下が一つに為ると推歩の術に異同は見られなかった。金・宋が角立すると両国は各々暦法を置いたが差殊があり、日官の選もまた精粗の異があった。今詔を奉じ金史を作るにあたり天文を志すには各々その旧に因り、特に春秋を凖とする。

日の薄食・暈・珥・雲気

  • 太祖天輔三年(1119年)夏四月丙子朔、日食。四年冬十月戊辰朔、日食。六年春二月庚寅朔、日食。七年秋八月辛巳朔、日食。
  • 太宗天会七年(1129年)三月己卯朔、日中に黒子。九月丙午朔、日食。十三年正月丙午朔、日食。
  • 熙宗天会十四年(1136年)十一月丙寅、日中に黒子が斜角に交行。天眷三年(1140年)七月癸卯朔、日食。皇統三年(1143年)十二月癸未朔、日食。四年六月辛巳朔、日食。五年六月乙亥朔、日食。八年四月戊子朔、日食。九年三月癸未朔、日食。
  • 海陵庶人天徳二年(1150年)正月甲辰、日に暈珥があり白虹がこれを貫いた。十一月丙戌、白虹が日を貫いた。十二月乙卯、慶雲が現れその状は鸞鳳のようで五彩であった。三年正月丁酉、白虹が日を貫いた。貞元二年(1154年)五月癸丑朔、日食。三年四月丁丑朔、昏霧が四塞し日は光を失うこと凡そ十七日にして霽(は)れ、五月丁未朔、日食。正隆三年(1158年)三月辛酉朔、司天が日食を奏したが候しても見えず、海陵は今後日食は皆面奏するのみとし中外へ頒告する必要はないと勅した。五年八月丙午朔、日食。庚午、日中に黒子があり人のような状であった。六年二月甲辰朔、日に暈珥・戴背があった。十月丙午、慶雲が現れた。
  • 世宗大定二年(1162年)正月戊辰朔、日食があり鼓を伐ち幣を用い、夀王京に代拝させ行礼させて制とし、凡そ日月の虧食に遇うたびに酒楽・屠宰を一日禁じることとした。三年六月庚申朔、日食があり上は視朝せず官に代拝させ有司は事を治めず時を過ぎて乃ち罷めることを以後の常とした。四年六月甲寅朔、日食。七年四月戊辰朔、日食があり上は正殿を避け膳を減じ応天門内で鼓を伐ち百官は各々本司の庭に立ち日が復するまで止めた。閏七月己卯の午刻、慶雲が日を環り、八月辛亥の午刻、慶雲が日を環った。九年八月甲申朔、有司が日食に当たると奏したが雨で見えず太社に安んじたため乃ち社で鼓を伐ち応天門内で幣を用いた。十三年五月壬辰朔、日食。十四年十一月甲申朔、日食。十六年三月丙午朔、日食。十七年九月丁酉朔、日食。二十三年十月己未、慶雲が日側に現れた。十一月壬戌朔、日食。二十八年八月甲子朔、日食。
  • 二十九年正月乙卯、巳の初に日に暈があり左右に珥、上に背気が二重あり色は青赤で厚く、また白虹が天を亘って貫き、その東に戟気の長さ四尺余のものが五刻して散った。丁巳、巳の初刻に両珥があり上に背気二重、色は青赤で淡く、まもなく背気が日の上で冠となり、まもなく共に散った。二月辛酉朔、日食。甲子、辰刻に日上に重暈と両珥があり抱いてはまた背き、背いてはまた抱くこと凡そ三四次。乙丑、日暈と両珥に負気と承気があり、白虹が天を亘り左右に戟気があった。
  • 章宗明昌三年(1192年)十二月丙辰、北方にわずかに赤気があった。四年九月癸未、日上に抱気二・戴気一が相連なり、左右に珥があり色は鮮明であった。六年三月丙戌朔、日食。
  • 承安三年(1198年)正月己亥朔、日食したが陰雲で見えず。五年十一月癸丑、日食(宋史では六月乙酉朔とする)。
  • 泰和二年(1202年)五月甲辰朔、日食。三年十月戊戌、日が没しようとする時の色が赭のように赤く、甲辰の申酉の間、天色は赤く夜が明けようとする頃また然り。四年三月丁卯、日が昏くして光がなかった。五年九月戊子の戌の時、西北方の黒雲の間に火のような赤気があり、次いで西南・正南・東南方に及び皆赤く中に白気が貫徹して乍隠乍見し、まもなく雨となり風を伴い二更の初めに至ると黒雲の間に赤気がまた西北方より起こり正西・正東・東北を往来遊曵し、内に白気数道が時々出没し、その赤気はまた中天に満ちて約四更に皆散った。六年正月、北京の申龍山県の西に雲が結んで車牛行帳の状を成すのが見えた、あるいは前後に摧損した勢に似ており晡(ゆうがた)の時に乃ち散った。二月壬子朔、日食。七月癸巳の申刻、日上に背気一があり内は赤外は青で須臾にして散った。九月乙酉、曙けようとする頃北方に赤白気数道が王良から羽林軍の上、壘壁陣の下を経て徐行し北斗の開陽・揺光の東に至って散った。八年四月癸卯の巳刻、日に暈二重があり内は黄外は赤く、時を移して散った。
  • 衛紹王大安元年(1209年)四月壬申、北方に大道のような黒気が東西に天を竟め五更に至って散った。十二月辛酉朔、日食。三年三月辛酉の辰刻、北方に堤のような黒気があり内に白気三つ、龍虎の状に似た。十月己卯、東北・西北に毎に初更に至ると月が出ようとする状のようで明けて夜半に至って滅し、月を経てようやく已んだ。
  • 宣宗貞祐元年(1213年)十月丙午、夜に白気三つが紫微を衝いたが貫かなかった。十二月丙申、白気が東西に天を竟め時を移して散った。二年九月壬戌朔、日食し大星が皆現れた。三年正月壬戌、日に左右珥があり上に冠気があって刻を移して散った。二月丁巳、日が初めて出る時血のように赤く、没しようとする時また然り。六月戊申、夜に大路のような黒気が広く東南から西北に至りその長さ天を竟めた。四年二月甲申朔、日食。閏七月壬午朔、日食。
  • 興定元年(1217年)七月丙子朔、日食。二年七月庚午朔、日食。三年七月庚申、五色の雲が現れた。十月乙丑、平涼府に慶雲が現れ官を派して実を験し太廟に告げ国中に詔した。五年正月、山東行省蒙古綱が慶雲が現れたと奏し図に描いて進めるよう命じた。四月丙子、日の正午に黄暈が四方を匝りその色は鮮明であった。五月甲申朔、日食。六月戊寅、日が出ようとする時に大路のような気があり丑未を経て虚危を歴て東西に見えず時を移して没した。十二月己巳、北方に白気が広さ三尺余で東西に天を亘った。
  • 元光元年(1222年)十一月丁未、東北に火のような赤雲があった。二年五月辛未、日暈が匝らず背気があった。九月庚子朔、日食。
  • 哀宗正大二年(1225年)正月甲申、黄黒の祲があった。三年三月庚午、省前に微かに黄色の気があり東北から西南に亘り虹のような状で中に白物十余りが往来飛翔し、また光が倏(たちま)ち二星のように見え時を移してようやく滅した。四年十一月乙未、日上に虹が背き外に向かうもの二つがあり長さ丈余、両旁に共に白虹が貫いた。この年六月丙辰、白気が天を経、あるいは太白が井宿に入るとも言われた。五年十二月庚子朔、日食。八年三月庚戌の酉正、日が忽ち白くなって色を失い乍明乍暗、左右に日に似て光のない気があり日と相凌ぎ日光が四方に出て揺盪して没するまで続いた。
  • 天興元年(1232年)正月壬午朔、日に両珥があった。三年正月己酉、日が大いに赤く光を失い、京索の間に血が雨のように十余里に及んで降った。この日、蔡城が陥り金は亡んだ。

月・五星の凌犯および星変

  • 太宗天会七年(1129年)十一月甲寅、天旗が明河鼓に直った。十年閏四月丙申、熒惑が氐宿に入った。八月辛亥、彗星が文昌に出た。十一年五月乙丑、月が忽ち行を失い南したがまもなく元に復した。七月己巳、昏に大星が東南に隕ち散火のようであった。十二月丙戌、月が昴宿を食した。
  • 熙宗天会十三年(1135年)十一月乙酉、月食があり有司に幣を用いて救わせ令とした。十四年正月辛巳、太白が凡そ四十余日昼見して伏した。壬辰、熒惑が月に入った。三月丁酉、夜中に星が揺れた。九月癸未、缶のように大きな星が西南に起こり正西に流れた。十一月己巳、狼星が揺れた。十五年正月戊辰、歳星が積尸気を犯した。
  • 天眷二年(1139年)三月辛巳朔、歳星が太微に留逆した。五月戊子、太白が昼見した。八月丁丑、太白が昼見した。九月辛巳、軒轅左星を犯し、乙巳、左執法を犯した。十一月戊寅、氐宿に入った。三年七月壬戌、月が畢宿を犯した。十二月壬午、東井東轅南第一星を掩した。
  • 皇統元年(1141年)二月甲戌、月が畢大星を掩した。二年十一月己酉、月が軒轅大星を犯し、甲寅、氐東北星を犯した。三年正月己丑、熒惑が軒轅次北一星を逆犯し、二月乙丑、月が畢大星を犯し、閏四月癸巳、月が軒轅左角星を掩し、八月丙申、老人星が現れ、九月丁丑、月が軒轅大星を犯した。四年八月癸未、熒惑が輿鬼に入った。五年四月丙申、彗星が西北に現れ長さ丈余、五月壬戌に至って始めて滅した。甲辰、熒惑が左執法を犯した。六年九月戊寅、熒惑が西垣上将を犯し、己丑、月が軒轅第二星を犯した。七年正月辛未、彗星が東方に出て長さ丈余、凡そ十五日にして滅した。丁亥、太白が経天した。七月己巳、太白が経天した。庚辰、熒惑が房第二星を犯した。十一月壬戌、歳星が井東扇第二星を逆犯した。八年閏八月丙子、熒惑が太微垣に入った。十月甲申、太白が昼見した。十一月壬辰、経天した。十二月丙寅、太白が昼見した。九年二月癸亥、月が軒轅第二星を掩した。七月甲辰、太白・辰星・歳星が張宿で合した。丁未、熒惑が南斗第四星を犯し、八月壬子、また南斗第三星を歴した。
  • 海陵天徳元年(1149年)十二月甲子、土星が東井東星を犯した。二年正月乙酉、月が昴宿を犯し、壬辰、木星を犯し、乙未、角宿を犯し、二月丙寅、心大星を犯した。九月乙亥、太白が昼見し翌年正月辛卯の後まで見えず、丁酉、月が軒轅左角を犯し、十月乙丑、太微上将を犯し、十二月癸丑、昴宿を犯した。三年二月丙辰、月食。十月丁亥、月が軒轅左角を犯した。四年正月癸卯、太白が経天した。二月乙亥、月が鬼宿を掩し鎮星を犯した。五月己亥、太白が経天し、丁巳、また経天した。六月癸巳、太白が井東第二星を犯した。八月辛未、太白が軒轅大星を犯した。十一月甲辰、熒惑が鈎鈐を犯し、丙午、月が井北第一星を犯した。十二月乙卯朔、太白が経天し、丙子、月食。閏月己亥、太白が経天した。
  • 貞元元年(1153年)正月辛丑、月が井東第一星を犯した。四月戊寅、杯のような星が氐宿より天市に入りその光が地を照らした。十二月乙卯、太白が経天し、庚午、月食。閏月乙酉、太白が経天した。二年正月庚申、太白が経天しこの夜月が昴宿を掩した。二月辛丑、心前星を犯した。三月辛巳、月食。七月癸丑、太白が凡そ三十三日昼見して伏した。八月戊戌、熒惑が井宿に入り凡そ十一日にして出た。十一月甲子、月食。三年八月乙酉、月が牛宿を犯し、九月辛亥、建星を犯し、十一月戊午、井鉞星を掩した。
  • 正隆二年(1157年)正月庚辰、太白が凡そ六十七日昼見して伏した。三年正月丁亥、杯のような流星が長さ二丈余でその光が地を照らし太微より出て梗河の北に没した。二月己卯、熒惑が鬼宿に入り、辛巳、月食、甲午、月が歳星を掩した。六月丁酉、氐宿を犯した。九月己未、太白が経天し翌年正月二十一日まで見えなかった。十二月戊申、月が氐宿に入った。四年九月壬寅、月が軒轅右角を掩し、十一月壬辰、畢宿に入り大星を犯し、十二月太白が凡そ七日昼見した。五年正月、海陵が司天提点馬貴中に「朕は自ら将となり宋を伐とうと思う、天道はどうか」と問うと、貴中は「去年十月甲戌、熒惑は順に太微に入り屏星に至って留退し西に出ました、占書では熒惑は常に十月に太微庭に入り制を受けて出て無道の国を伺うとされます、また去年十二月太白が昼見して経天しました、占では兵喪となり不臣となり主が更わり、また主に兵ある時は兵罷まり兵なき時は兵起こると」と対した。甲午、月食。二月丁卯、太白が昼見した。四月甲戌、また現れ凡そ百六十九日にして伏した。六年七月乙酉、月食。九月丙申、太白が昼見した。これより先、海陵が司天馬貴中に「近日の天道はどうか」と問うと、貴中は「前年八月二十九日、太白が太微右掖門に入り、九月二日端門に至り、九日左掖門に至って出て、竝びに左右執法を歴ました。太微は天子の南宮、太白は兵将の象で、その占は兵が天子の庭に入るとされます」と言った。海陵は「今まさに征伐しようとしているのに兵将が太微に出入りするのは正にその事だ」と言った。貴中はまた「端門に当たって出るのはその占は受制とされ、左右執法を歴るのは受事とされます、これは当に出使する者があり、あるいは兵となりあるいは賊となるでしょう」と言うと、海陵は「兵興の際には小賊がないはずはない」と言った。この歳、海陵は南伐し弑せられた。
  • 世宗大定元年(1161年)十月丙午、熒惑が太微垣に入り上将東にあった。丁巳、月が井西扇北第二星を犯した。二年正月癸巳、太白が昼見した。閏二月戊寅、月が軒轅大星を掩した。三月戊申、太微東藩南第一星を掩した。八月乙酉、井西扇北第二星を犯した。九月庚戌、畢距星を犯した。十月戊辰、太白のような大星が室壁の間に起こり羽林軍の尾に没しその跡の長さ丈余であった。三年正月庚子、太白が凡そ百十日昼見して伏した。五月辛丑、月が氐宿に入った。七月庚戌、太白が百二十七日昼見して伏した。八月丁未、月が井距星を犯し、丙寅、太白が昼見し経天した。十月庚辰、月が太微垣西上将星を犯した。十一月庚寅、太白が昼見し経天し、歳星が氐宿に入り凡そ二十四日にして伏した。壬子、月が氐宿に入った。四年正月戊子、熒惑・歳星が共に氐宿にあり、己丑、熒惑が氐宿を出た。二月壬午、歳星が氐宿に退入し凡そ二十九日。九月丙午、月が軒轅大星北次星を犯した。十一月丙申、月食既。十二月辛卯、太白が昼見し経天し、癸卯、月が房北第一星を掩した。五年正月癸亥、月が軒轅大星北次星を掩した。八月丁酉、井東扇第一星を犯した。十一月癸丑、熒惑が氐宿に入り凡そ二十一日。六年二月丙申、月が南斗東南第二星を犯した。三月己未、氐宿に入った。四月辛丑、太白が昼見し八十八日にして伏した。六月太白が昼見し辛巳経天した。九月壬子、太白が昼見し百三日にして伏し、丙辰経天した。十月壬辰、また昼見し経天した。十一月辛亥、金星が氐宿に入ること凡そ七日、庚申、太白が昼見し経天した。十二月戊子、また現れ経天し、癸巳、月が房北第二星を犯した。七年十月乙巳、火星が氐宿に入ること凡そ四日。十一月壬申、太白が九十一日昼見して伏し、丁丑、歳星が二日昼見した。八年正月癸未、月が心大星を掩した。三月庚午、軒轅大星北一星を掩した。己丑、太白が百五十八日昼見して伏した。五月丁卯、歳星が昼見した。八月甲午、太白が軒轅大星を犯した。十月庚子、月が熒惑を掩した。十一月庚午、昴宿を犯した。九年正月戊寅、月が心後星を掩した。四月庚子、心前星を掩した。八月癸卯、昴宿を掩した。十二月丙戌、土星を犯し、丁酉、太白が十六日昼見して伏した。十年正月丙寅、月が軒轅大星を掩した。七月庚子、五車東南星を犯した。八月戊申朔、木星が熒惑を掩し参畢の間にあった。十一年二月壬戌、熒惑が井東扇北第一星を犯した。八月癸卯、太白が昼見した。十二年五月辛巳、月が心後星を犯した。八月癸卯、心大星を犯し、辛亥、熒惑が井東扇北第二星を掩し、丁亥、太白が日前で九十八日昼見して伏した。十月己酉、熒惑が鬼西北星を掩し、歳星が日後で四十七日昼見して伏した。十三年閏正月辛酉、太白が四十九日昼見して伏した。二月己丑、熒惑が鬼西北星を犯した。三月癸巳朔、鬼宿に入り翌日積尸気を犯した。六月辛未、月が心前星を犯した。十月乙丑、歳星が日後で五十三日昼見して伏した。十四年三月辛丑、太白・歳星が十八日昼見して伏し、丙辰、二星が凡そ二日経天した。六月己未、太白が三十九日昼見した。八月己卯、昼見しまた百三十二日にして伏し、庚辰、熒惑が積尸気を犯した。十月丙寅、歳星が六日昼見した。十一月甲子、太白が八十六日昼見して伏した。十二月乙丑、月が井西扇北第一星を掩した。十六年三月庚申、月食。五月甲寅、太白が五十四日昼見して伏し、庚午、月が太白を掩した。七月丁未、角宿距星を犯し、甲子、畢宿距星を掩した。八月丙子、太白が軒轅大星を犯した。九月丁巳、月食。十月丁丑、熒惑が太微に入った。十一月甲寅、月が畢距星を掩し、戊辰、熒惑が太微上将を犯した。十二月己丑、月が太微左執法を掩した。十七年春正月丙寅、熒惑が太微西藩上相を犯した。九月庚戌、歳星・熒惑・太白が尾宿に聚った。十二月己巳、太白が四十四日昼見して伏した。十八年七月庚辰、土星が井東扇北第二星を犯した。九月己丑、熒惑が左執法を犯した。十二月甲午、鎮星が井西扇北第一星を凡そ十日掩した。十九年正月甲戌、月食既。三月甲戌、熒惑が氐距星を犯した。四月丁巳、歳星が凡そ七日昼見した。七月丙子、太白が四十五日昼見して伏した。八月癸卯、軒轅御女を犯し、辛亥、熒惑が南斗杓第二星を掩した。九月壬申、月が畢大星を掩した。十一月辛未、熒惑が歳星を掩し、十二月丁亥、月が歳星を犯した。二十年二月己丑、月が畢大星を掩した。三月丙辰、畢西第二星を掩した。二十一年二月戊子、月が鎮星を犯し、戊戌、太白が昼見し、二月甲子、太白が昼見した。四月壬申、熒惑が斗魁第二星を十四日掩した。六月甲戌、客星が華蓋に現れ凡そ百五十六日にして滅した。七月乙亥朔、熒惑が斗魁中に順入して五日(以下史闕)。二十二年五月甲申、太白が六十四日昼見して伏した。七月戊子、歳星が二日昼見した。八月戊辰、太白が百二十八日昼見しそのうち経天したのは六十四日。十一月辛未、熒惑が氐宿中を行き、乙亥、太白が氐宿に入り、辛巳夜、月食既、癸未、熒惑・太白が皆氐宿中より出た。十二月戊戌、熒惑が鈎鈐を犯した。二十三年五月己卯、月食既。九月甲申、歳星が五十五日昼見して伏した。十月辛酉、太白が百四十九日昼見して伏した。十一月丁卯、歳星が三十三日昼見して伏した。閏十一月庚申、歳星が九十日昼見して伏した。二十四年四月己未朔、太白が百四十五日昼見して伏し、甲申、月が太白を掩した。九月庚子、歳星が軒轅大星を犯し、甲辰、五十二日昼見して伏した。十月壬申、太白・辰星が同度した。二十五年三月乙酉、太白と月が相犯した。九月丁亥、月が丁魁中で西第五星を犯した。十一月庚辰朔、歳星が日後で凡そ七十四日昼見し、壬午、太白が日後で百十一日昼見して伏した。十二月己未、月が熒惑を犯し、甲子、太白が昼見し経天した。二十六年三月丙戌、熒惑が井宿に入り鎮星が太微東藩上相を犯し、壬辰、月食。四月丁丑、熒惑が鬼西南星を犯した。七月丙申、月が心前大星を掩しまた朔日に犯し、月・五星が軫宿に会した。十二月乙未、月が心前大星を掩しまた後星を犯した。二十七年五月壬子、月が心大星を犯した。六月庚辰、太白が百七十三日昼見して伏し、癸巳、月が昴宿を掩した。七月丙午、房南第一星を犯しこの日太白が昼見し経天した。十月己丑、太白が氐宿に入った。十二月丁丑、月が昴宿を掩した。二十八年正月己未、歳星が房宿に留まり、甲子、房北第一星を守った。十一月丙申、鎮星が氐宿に入り、庚子、太白が日前で四十九日昼見して伏した。十二月壬申、月が昴宿を掩した。二十九年正月丁酉、土星が氐宿中に三十七日留まり七十九日逆行して後に氐宿を出た。五月庚寅朔、太白が日後で昼見した。六月丙辰、月が太白(北星南)を犯し柳宿に同座した。十一月己未、熒惑が軒轅を守り戊辰に至って退行しその色がやや怒(赤)くなった。十二月辛丑、月食既。
  • 章宗明昌元年(1190年)二月丁亥、太白が昼見した。六月丁酉、月食既。十二月乙未、月食。二年六月壬辰、月食。十一月乙丑、金木二星が日前十三日現れ乃ち伏し順行し危宿にあり羽林軍上・壘壁陣下にあり光芒が明大であった。十二月戊子、木金が相犯し光芒があった。三年三月戊戌、熒惑が順行し太微西藩上将を犯した。四月丁巳、月食。己未、熒惑が右執法を掩しその色は怒(赤)くやや赤かった。四年正月丙子、月に暈があり白虹がその中を貫いた。八月己亥卯初三刻、歳星が現れ未正二刻に太白が現れ倶に午位にあり、この夜歳星が胃宿十三度に留まり天廩を守った。九月戊申、月食。五年十月癸卯、月食。十一月癸丑、太白が日前で三十三日昼見して伏した。六年正月庚寅、太白が日前で百二日昼見して伏した。六月庚辰、また日後で百六十七日昼見しただ経天したのはこの日のみであった。
  • 承安元年(1196年)四月、司天が河津の星象事を奏し、上は宰相に「天道は不測、当に予めこれに防ぐべし」と諭した。八月壬戌、月食。九月壬午、太白が日前で百七日昼見して伏した。二年二月丁巳、太白が日後で百九十五日昼見して伏し、己未、経天しこの夜月食既。三年正月甲寅、月食。七月庚戌、月食。五年五月庚午、月食。六月庚戌、月が太白を掩した。
  • 泰和元年(1201年)十一月辛酉、月食。二年五月己未、月食。三年三月癸未、月食。六月戊戌、太白が日後で百十日昼見して伏した。四年九月乙亥、月食。五年三月壬申、月食。八月己巳、月食。六年五月甲申、太白が日前で七十六日昼見し、庚戌、経天した。六月辛未、歳星が日後で昼見した。七月戊申、経天した。八月癸卯、月暈が太白・熒惑二星を囲み、辛亥、歳星が辰見しこの夜五更に東井距星と相去ること七寸内であった。癸丑夜半、太白のような流星があり色は赤く婁宿より起こった。己未卯正初刻、太白が日前で昼見しこの夜五更に熒惑が輿鬼・積尸気と相犯し七寸内であった。庚申卯正初刻、太白が日後で昼見しこの夜五更初め熒惑が輿鬼・積尸気の中にあった。壬申、太白が日後で昼見し経天した。十月丙午、歳星が東井距星を犯した。十一月壬午、太白が氐宿に入った。七年正月丙戌初更、月に暈があり歳鎮二星を囲み参畢の間にあった。辛卯、月食。三月癸丑、月が軒轅大星を掩した。七月戊子、月食。九月己卯初更、月が南斗魁中にあり旦に歳星が輿鬼中にあった。八年正月丙戌、月食。七月戊戌朔、太白が日後で昼見した。八月壬戌、太白・歳星の光芒が相及び同じく張宿一度にあった。十一月庚子未刻、太白のような流星二つがあり光芒は炬のようで幾ど一丈、東北より起こり東南に没した。
  • 衛紹王大安元年(1209年)正月辛丑、火のような飛星が天市垣尾より起こりその跡は赤龍の状のようで時を移して散った。二月乙丑朔、太白が昼見し経天した。六月丁丑、月食。十月乙丑、月食。熒惑丙寅、歳星が左執法を犯した。二年正月庚戌朔、日中に流星が出て大きさ盆のようでその色は碧、西行し漸く車輪のようになりその尾は数丈で濁中に没し地に至ってまた起こり光が散って火のようになり時を移して滅した。二月、客星が紫微中に入りその光は散って赤龍の状のようであった。三年正月乙酉、熒惑が氐宿中に入り凡そ十一日にして出た。二月、熒惑が房宿を犯し、閏月、鍵閉星を犯した。十月癸巳、壘壁陣を犯した。
  • 崇慶元年(1212年)春三月、日の正午に日月・太白が皆咫尺の間に相去った。
  • 宣宗貞祐元年(1213年)十一月丙子、熒惑が壘壁陣に入った。二年二月庚戌、月食。八月丁未、月食。九月丁亥、太白が軫宿に昼見した。十一月庚辰、鎮星が太微東垣上相を犯し、辛巳、熒惑が房鈎鈴を犯した。三年七月庚申、太白のような流星があり色は青白で尾があり紫微垣北極の傍より出て貫索中に入り、己卯、月が畢宿に入り戊夜に至って畢大星を犯した。八月辛丑、月食既。十二月庚寅、太白が危宿で八十五日昼見して伏した。四年正月乙卯夜中、天に日のような大きさの流星があり色は赤く長さ丈余、西南に墜ちその声は雷のようであった。二月己亥、月食。四月丁酉、太白が奎宿で百九十六日昼見して伏した。六月丙申、歳星が奎宿で百一日昼見して伏した。閏七月乙未、月食、辛丑、畢宿を犯した。十一月丙戌、月暈に歳星があり歳は奎宿にあり月は壁宿にあり、己丑、畢大星を犯した。十二月戊午、また畢大星を犯した。
  • 興定元年(1217年)正月乙酉、月が畢左股第二星を犯した。四月戊辰、太白が井宿で百六十二日昼見して伏した。八月戊申、歳星が昴宿で六十七日昼見して伏した。九月癸巳、月が東井西扇第二星を犯した。十月癸丑夜、杯のような大きさの流星があり尾の長さ丈余、軒轅より起こり太微を貫き角宿の上に没した。十一月癸未、月暈に歳星・熒惑二星があり木は胃宿に火は昴宿にあり、丙戌、太白が昼見した。十二月戊午、月食。二年六月乙卯、月食。八月壬戌、杯のような大きさの流星があり尾の長さ丈余、その光が地を照らし建星より起こり尾中に没した、あるいは東北から西南に至って墜ちたと言い、その光は塔の状のようで先に風のような音がありのち雷のような音が三たびあり窓紙が皆震えたと言う。十月庚申、月が軒轅左角の少民星を犯した。十一月壬子、月食既。三年五月庚戌、月食既。壬子、太白が参宿で三十六日昼見し経天しまた百八十四日にして伏した。七月壬寅初昏、西南より来てその光が地を照らし状は月に似てやや円くなく色は青白、小星千百が無数にこれを環り迸る火のようで東北に墜ち少頃にして鼓のような音があった。八月丁卯、歳星が輿鬼東南星を犯し、己巳、歳星が柳宿で百九日昼見して伏した。十一月乙巳、月食。癸丑、白虹二つが月を夾みまもなくまたこれを貫いた。四年正月庚子、月が東井を犯した。三月甲寅、歳星が鬼宿の積尸気を犯した。五月甲辰、月食。六月戊辰、歳星が現れ太白が張宿で百八十四日昼見して伏した。十一月壬辰、歳星が翼宿で六十七日昼見し夜また霊台北第一星を犯した。五年正月辛丑、太白が牛宿で二百三十二日昼見して伏し、司天瓜爾佳徳玉らが臣強の象とし祭って禳うことを請うたが、宣宗は「斗牛は呉の分、宋の境である、他国の災いを吾が禳うてよいものか」と言った。九月庚戌、歳星が左執法を犯した。閏十二月戊子、熒惑が軒轅を犯し、甲午、月が熒惑を犯し、戊戌、鎮星が軫宿に昼見し、己亥、太白が室宿に昼見した。六年正月辛酉、月が熒惑を犯し、壬戌、軒轅を犯した。三月壬子、月食し太白も。四月癸亥、月食。丙寅、歳星が太微左執法を犯した。七月乙亥、太白が経天し日と光を争った。八月己卯、彗星が亢宿の右摂提・周鼎の間に出て大角を指し、太史が旧を除き新を布くの象と奏し年号を改め政を修めて天変を消すべしと言い、ここにおいてこの年を改めて元光元年とした。九月丁未、滅し、壬申、月食し歳星も。
  • 元光二年(1223年)八月乙亥、熒惑が輿鬼に入り積尸気を掩した。十月壬午、霊台を犯した。十一月また心大星を犯した。
  • 哀宗正大元年(1224年)正月丙午、月が昴宿を犯した。三月癸丑、熒惑を犯し、この月熒惑が逆行し左執法を犯した。四月癸酉、熒惑が右執法を犯し、乙未、太白・辰星が相犯した。三年十一月丙辰、月が熒惑を掩し、丁巳、熒惑が歳星を犯し、庚申、壘壁陣を犯し、癸酉、五星が共に西南に現れた。十二月、熒惑が月に入った。四年正月壬戌、熒惑が太白を犯した。六月丙辰、太白が井宿に入った。七月丁亥、熒惑が斗宿従西第二星を犯した。五年五月乙酉、月が心大星を掩した。七年十月己巳、月暈があり五更に至ってまた大連環がこれを貫き北斗を絡い内に戟気があった。十二月庚寅、天津の下に鎮星のような大きさで色が明らかでない星が出、初め輦道を犯し二日にして東北の織女の南に現れ、乙未、天市垣に入り、戊申、方に出て、癸丑、房宿の北を歴てまた東南行し積薪に入り凡そ二十五日にして滅した。
  • 天興元年(1232年)七月乙巳、太白・歳星・熒惑・太陰が倶に軫翼に会し、司天武亢が極めて天変を言うと上はただ歎息するのみで結局これを罪しなかった。八月甲戌、太白・歳星が交わった。閏九月己酉、彗星が東方に現れ色白く長さ丈余、彎曲して象牙のようで角軫の南より出て行き十二日に至り長さ二丈になり、十六日、月の光に遮られ見えなくなり、二十七日五更にまた東南に出て約長さ四丈余、十月一日に至って始めて滅し凡そ四十八日、司天はその咎は北にあると奏し、哀宗は「我もまた北人だ、今日の事は我が滅びるべきものであろう、なぜ先でなく後でもなくちょうどこの時に丁(あた)ったのか」と言った。