金史卷十二 本紀第十二 章宗四
金の第六代皇帝章宗(完顔璟)の治世末期、泰和四年から八年(1204年–1208年)に至る本紀第十二の記事。旱魃への対応や祭祀の整備に追われる一方、宋との緊張が高まって泰和南伐(対宋開戦)に至り、蜀では呉曦の帰附・誅殺という事変も起きた。宋が韓侂胄・蘇師旦の首を献じて講和が成った直後、章宗は在位のまま崩じた。
年表(12件)
- 泰和四年1204年春、山東・河北の大旱により祈雨・責躬求直言を繰り返し行う
- 泰和五年1205年三月、宋兵が秦川界に入り侵犯が始まる
- 泰和五年1205年五月、平章政事布薩揆を河南宣撫使とし諸道の兵を備えさせる
- 泰和六年1206年五月、宋の背盟を天地・太廟・社稷に告げ出師を布告する(泰和南伐)
- 泰和六年1206年六月、蔡州で宋将田俊邁を捕える
- 泰和六年1206年十月、諸路の元帥を分けて宋への大規模進攻を発する
- 泰和六年1206年十二月、宋の呉曦が金に納款し蜀王に封じられる
- 泰和七年1207年二月、呉曦が宋臣安丙に殺される
- 泰和七年1207年十一月、宋の韓侂胄が乞和を請い蘇師旦の首を献じることを求める
- 泰和八年1208年五月、宋が韓侂胄・蘇師旦の首を元帥府に献じる
- 泰和八年1208年六月、宋との和議が成り両国が講和する
- 泰和八年1208年十一月、福安殿で崩じる。年四十一。廟号章宗
泰和四年(1204年)
- 春正月乙丑朔、宋・高麗・夏が使者を遣わし賀した。丁卯、外方の使人に刀を佩びて宮に入らせないことを諭した。庚午、豫王永成第に幸し疾を視た。辛未、光春宮の春水に如った。壬申、陰霧木冰があった。丁丑、行尚書省が宋の賀正使が慶都に至って卒したと奏すると、防禦使努色爾を遣わし往って祭を致し賻に絹布各二百二十疋を賜り、送伴使張雲に喪を護らせて帰らせることを命じた。豫王永成が薨じた。辛卯、高麗国王王晫が没しその嗣子韺が使者を遣わし告哀した。二月乙未朔、宮に還った。丁酉、山東・河北の旱をもって東北二嶽に祈雨を詔した。己亥、豫王永成の遺文を購求することを命じた。庚戌、初めて三皇五帝四王を祭った。癸丑、刺史州郡で宣聖廟学が無いところはみなこれを増修することを詔した。三月丁夘、日が昬く光がなく大風が宣陽門の鴟尾を毀った。癸酉、大興府に祈雨を命じた。戊寅、太極宮に幸し前代の帝王で致祭に合すべき者を定めることを詔した。尚書省が三皇五帝四王はすでに三年一祭の礼を行っており、夏の太康・殷の太甲太戊武丁・周の成王康王宣王・漢の高祖文帝景帝武帝宣帝光武帝明帝章帝・唐の高祖文皇の一十七君を致祭に加えるがよいと奏すると従った。乙酉、北郊で祈雨した。丁亥、万寧宮に如った。壬辰、社稷で祈雨した。遼陽府判官錫黙瑠嘉が上書して朝臣を論列したことに官一階を削られ罷された。夏四月丙申、県令以下の考課法を詔定した。己亥、太廟で祈雨した。庚子、闗防姦細格を増定した。丙午、衣服制を定めた。北郊で嶽鎮海瀆を望祀して祈雨した。癸丑、社稷で祈雨した。甲寅、久旱をもって責躬求直言・避正殿・減膳・撤楽・省御廐馬を詔し、旱菑州県の徭役及び今年の夏税を免じ、使者を遣わし繋囚を審し冤獄を理めさせた。乙卯、宰臣が待罪を上表すると詔で「朕は徳に愆ちがあり上天が異を示す、卿らはそれぞれ乃の職に趨きよく朕の懐いに副え」と答えた。戊午、西上閤門使張偁らを故高麗国王王晫の勅祭使とし、東上閤門使石慤らを高麗国王王韺の慰問起復横賜使とした。庚申、太廟で祈雨した。壬戌、万寧宮の端門が災した。五月乙丑、北郊で祈雨した。有司が雩を請うと三たび嶽瀆社稷宗廟を禱ってから雨がなければ行うことを詔した。癸酉、平章政事図克坦鎰・尚書右丞完顔匡が罷された。甲戌・乙亥、雨があると百官が正殿に御し常儀を復すことを表奏した。乙酉、宗廟で謝雨した。丁亥、社稷に報祀した。随朝の冗官を汰し省令史が公務を闗決するのに已稟と詭称し六部大理寺の法状を擅退しあるいは妄りに更易する者の罪を定めた。辛卯、嶽鎮海瀆に報謝した。六月壬辰朔、兼官の俸給を罷めた。壬寅、復び吏目移転法を行った。乙巳、初めて中霤を祭った。戊申、恵川・高・三州・秀巌・灤陽・徽川・咸寧・全安・利民の六県及び北京宮苑使・諸羣牧提挙・居庸紫荊通会三闗使・西北路鎮防十三千戸・諸路医学博士を罷めた。壬子、司天台長行張翼が天象伝を進めた。秋七月丁夘、申報盗賊制を定めた。戊辰、衍慶宮で朝献した。庚午、望京甸に幸した。壬申、万寧宮に如った。甲戌、限銭法を罷めた。甲申、鎬王永中を威州に改葬した。八月、大理丞姫端修・司直温都諳逹が知大興府事赫舎哩執中を論奏したことが不当であることに坐しそれぞれ一官を削られ罷職とされた。丁酉、尚書右丞相崇浩を左丞相とし、右丞布薩揆を平章政事とし、参知政事孫即康を尚書右丞とし、御史大夫布薩端を左丞とし、吏部尚書通吉思忠を参知政事とした。庚子、完顔綱・喬宇・宋元吉らに陳言文字を編類することを詔し、その言が宮廷若しくは大臣・省台六部に涉るものはそれぞれ類をもって従わせ凡そ二千巻とした。辛丑、西京留守崇肅を御史大夫とした。癸卯、閤門祗候出職格を更定した。これより先、天旱をもって直言を求めることを詔していたが、この時に至り尚書省が河南府盧顕逹・汝州王大材の陳言が不遜に涉ることを奏すると、情理の切害をもってその罪を論じることを請い従った。なおあまねく中外に諭し諸路の学校生徒の少ない者は教授を罷め本州府の文資官のみをもってこれを提控させた。丁未、安州軍事判官劉常の言をもって諸按察司で体訪が実でないのに輒く糾劾を加える者は故出入人罪をもって論じ、なお勒停すること、若し事が私曲に涉れば各々本法に従うこととした。辛亥、宮に還った。乙卯、知真定府事完顔昌らを賀宋生日使とした。丁巳、太極宮に幸し囲場の遠地を弛め民の耕作・樵採を縦にし、教坊長行五十人・渤海教坊長行三十人・文繍署女工五十人を減じ、宮女百六十人を出した。九月庚申朔、天寿節に宋・高麗・夏が使者を遣わし賀した。丙寅、薊州の秋山に如った。壬申、屯田戸の自種及び租佃法を定めた。冬十月甲午、私鹻法を定めた。丙申、親軍の三十五以下に孝経・論語を習わせることを詔した。癸卯、秋山より至った。甲寅、提点尚衣局完顔夑を夏国生日使とした。十一月丁卯、殿前右副都点検烏凌阿毅らを賀宋正旦使とした。癸酉、木氷が三日続いた。丁丑、収補承応人格を定めた。十二月己丑朔、新平等県で虸蚄虫が生じた。己亥、左丞相崇浩らが尊号を上げることを請うたが許さなかった。辛丑、陝西河南の饑民が鬻いだ男女を有司に贖わせることを勅した。乙卯、百官が再表して尊号を受けることを乞うたが許さなかった。
泰和五年(1205年)
- 春正月己未朔、大雪があり宋・高麗・夏が使者を遣わし賀した。庚申、衍慶宮に謁した。乙丑、太極宮に幸した。丁卯、光春宮の春水に如った。壬申、衍慶宮で朝献した。乙亥、有司に太和三年より郡県三たび行幸を経て民がかつて供億した者はその今年の租税の半分を賜ることを詔した。丁丑、霸州に次り山東・河北の軍夫を調し漕渠を改治させた。二月己丑朔、按察司が近ごろの制で鎮静で大体を知ることを称職とし苛細で大体に闇いことを不称職としたことを論じた。これにより各路の按察は因循をもって事とし挙刺を思わず郡県は貪黷をもって相い尚び畏戢できなくなっている。今より若し糾察が実を得て民に冤滞なく一路を鎮静できる者は称職とし、あるいは煩紊で民に伸愬させる者は曠廃とした。癸巳、鞫勘の官が飲宴を受ける者の罪を定めた。己亥、建春宮に如った。甲寅、都門の契を盗用及び偽造する者の罪は宮城門を減じ一等とすることを制した。三月庚申、宮に還った。癸亥、両税の輸限を更定した。乙丑、宋兵が秦川界に入った。庚午、親王百官が尊号を上げることを請うたが許さなかった。甲戌、有司に進士名で孔子の諱を犯す者は避けさせなお令に著すことを諭した。諸寺に十月十五日を始めとし翌年正月十五日まで米を給し糜を作らせて貧民に食らわせることを命じた。戊寅、獄空銭を罷めた。辛巳、宋兵が鞏州・来遠鎮・唐州に入った。宋の諜者を得てその言に韓侂胄が鄂岳に屯兵し将に北侵を謀ろうとしていることを知った。夏四月戊子朔、万寧宮に如った。癸巳、樞密院に文書を移し宋人に誓約に依り新兵を撤去させ辺境への縦入をなくさせることを命じた。壬子、随路の転運司及び府官が毎季庫物を検視する法を定めた。五月甲子、平章政事布薩揆を河南宣撫使とし諸道の兵を籍して宋に備えさせた。癸酉、遼東の邑社人数を詔定した。戊寅、検知法勒留格を更定した。己卯、慶寧宮に如った。司属丞は凡そ父母の喪に遭えば止め卒哭の仮を給うことを永制とすることを制した。甲申、宋人が漣水県に入った。六月戊子、漣水県を復した。丁酉、本朝の婚礼を制定し鬻米麫の入外界法を更定した。己酉、鎮防軍が盗亡し辺事を敗り戸口を陥没させた場合の罪を制した。甲寅、拝礼で本朝に依らない者は罰することを詔した。諸大臣に備宋の策を問うと皆設備養悪を言ったが、上は南北の和好すでに四十余載で民は兵を知らないとし先発するに忍びなかった。七月戊辰、錦屏山に如った。壬申、衍慶宮で朝献した。乙亥、宣撫使揆が姦細罪賞法を定めたことを奏した。丙子、囲場で誤射で人に中った罪を定めた。壬午、諸県で盗賊が多いので巡尉を選注することを詔した。八月辛卯、宣撫司を罷めることを詔した。当時、宋の殿帥郭倪・濠州守将田俊邁が虹県の民蘇貴らを誘い河間南の将臣にさせ、また屡々諜者を縦にして往々に俊邁の賂を利し反って遊説をなさせたが、みな宋の増戍は本より他盗を虞ってのことでありまた行台の建つを聞いても畏懾して去ろうとせず、しかも兵はみな白丁で自ら糧糒を裹み窮蹙し饑疫で死ぬ者十に二三であると言っていたので、これにより中外はこれを信じた。宣撫司は宋の三省樞密院及び盱眙軍の牒を上げたが、またみな辺臣を鐫黜することを辞としたので、宣撫使揆はこれによって司を罷めることを請い従った。揆はまた臨洮・徳順・秦・鞏に新置した弓箭手を罷めることを奏した。閏月乙卯朔、典衛司を置いた。丙子、宮に還った。九月甲申朔、天寿節に宋・高麗・夏が使者を遣わし賀した。戊子、西北方に黒雲の間に大色のような赤気があり次いで西南・正南・東南方に及びみな赤くその中に白気を貫き中夜に至り赤気が天に満ち四更にして散った。河南路統軍使赫舎哩子仁らを賀宋生日使とした。戊戌、宋兵三百が比陽の寺荘を攻め副巡検阿里哈肆嘉努がこれに死した。甲辰、宋人が黄澗を焚き巡検高顥を擄した。冬十月庚申、刑部員外郎李元忠を高麗生日使とした。丁丑、宋人が比陽を襲い唐州軍事判官索多がこれに死した。十一月乙酉、宋人が内郷に入り洛南の固県を攻め商州司獄夀祖が丹河に追いこれを撃破した。己丑、太常卿趙之傑らを賀宋正旦使とした。癸巳、山東が食に欠けたので銭三万貫を賜り賑した。乙未、初めて武挙格を定めた。丁酉、山東・陝西の帥臣に士卒を訓練し非常に備えさせることを詔し、なお銀十五万両を辺帥に分給し民を募って偵伺させ、また武衛軍副都指揮使完顔太平・殿前右衛副将軍富察阿里を辺に赴かせその入るを伺い伏兵で掩わせた。戊戌、大雪で朝参を免じた。己亥、宮中局署承応収補格を更定した。宋の呉曦が興元に擁衆し闗隴を窺おうとし、皇甫斌はますます募兵し淮北を擾しその掠取した物はすぐこれに与え自ら戦を為させた。
泰和六年(1206年)
- 春正月癸未朔、宋・高麗・夏が使者を遣わし賀した。丁亥、宋使陳克俊らが朝辞し、御史大夫孟鋳を遣わし館に就いて克俊らに諭した。「大定の初め、世宗皇帝は宋を世々姪国とすることを許し、朕は遺法を遵守し和好は今に至った、どうして爾の国が屡々賊が我が辺境を犯すことがあろうかと思い、これをもって大臣を遣わし河南の軍民を宣撫したが、まもなく爾の国の有司の公移がすでに辺臣を罷黜し兵卒を抽去したと称するのを得たので、朕はまさに天下を度とし小嫌を介さず宣撫司を罷めたが、まもなく盗賊は前日より甚だしくなった。比来群臣は屡々爾の国が盟に渝いていると言うが、朕はただ和好が歳久しいので委曲涵容してきた、姪宋皇帝が未だ詳らかに知らないことを恐れるが、もし前のようにやまなければ臣下がまた復び云うことがあろう、朕は生霊を兼愛するといえど事もまた終に已めることができないかもしれない、卿らは帰国してまさに朕の意をこれに具言せよ」と。辛卯、衍慶宮で朝享した。丙申、宋の興元守将呉曦が兵を遣わし穆舒隆堡を囲むと部将布希長安がこれを撃走し将を斬った。辛丑、保伍法を更定した。癸卯、初めて沿河県官に管句漕河事を兼ねさせ、州府の府官には提控を兼ねさせた。丁未、春水に如った。庚戌、宋人が薩満谷に入り、陝西統軍判官完顔果囉・鞏州兵馬鈐轄完顔斉勤が宋西和州守将と境上で会おうと約したところ俄かに伏が発ちこれに襲われ木波部長趙彦雄ら七人が死し、果囉は馬が淖中に陥り流矢に中り、斉勤はわずかに身をもって免れた。二月甲戌、御史中丞孟鋳が提刑を按察司に改めまた官を差わして覆察するのは権が削られ望が軽くなるので便ならずと言うと、参知政事賈鉉は「按察司がすでに監察を差わし体訪させているのにまた官を遣わして覆察するのは誠に繁冗となる、今より監察を差わす時にすなわち官を遣わし俱にさせよ、更に覆察させるな」と言い従った。三月甲午、尚書省が啇州刺史烏庫哩揚珠が南兵と戦没した官の押軍を賻することを請うたこと、また右振粛富察烏錦を遷官することを奏し、みな従った。明昌の初め烏錦はかつて奉御として山東に出使し河間に至り百姓が饑えているをもってすぐ提刑司に移し倉を開いて賑させ還ってこれを具さに聞いたので上は甚だ悦んだ。太傅図克坦克寧が「陛下は始めて大政に親しまれたのですから近侍人に権を仮すべきではありません、専擅の罪を正すことを乞います」と言うと、烏錦を杖二十とすることを詔した。克寧がまたこう言ったので罷められた。後に上はこれを思い泰州都軍より振粛に召された。己亥、万寧宮に如った。甲辰、尚書省に祖父母父母が侍養する人がないのに子孫が遠遊し歳を経る者があるのは甚だ風化を傷つける、旧より徒二年の罪があるといえど太だ軽きに涉るようだ、その前律を考え再議して聞かせることを勅した。己酉、宋人が霊壁を攻め南京按察使が部に行くとちゅう県に至り民舎に匿れて免れた。四月丙辰、宋人が夀春を囲むと夀春から毫に告急し同知防禦使賢聖努が部騎六百を将いこれに赴きすぐ退いた。癸亥、尚書省が河南統軍司の言うところとして統軍使赫舎哩子仁らが厳整・閻忠・周秀輩を遣わし襄陽に入り敵の隠事を覘わせ還って言うには皇甫斌が兵四万を遣わし鄧を規取しようと叛人田元を郷導とし、三万人が唐を規取しようと張貞・張勝を郷導とし俱に統領官を授けているので敢えて備えないわけにいかず、そこで鄭・汝陽・翟の兵を昌武に聚め南京副留守兼兵馬副都総管赫舎哩毅にこれを統べさせ、亳・陳・襄邑の兵を帰徳に聚め河南路副統軍図克坦鐸にこれを統べさせ、自らその部兵をもって汴に駐まり、山東東西路軍七千を擬して統軍赫舎哩執中に付し大名に駐まらせ、河北東西路軍一万七千を河南に屯め、みな馬を給し老弱がある場合はその人を易えることをみな従った。甲子、宋人が天水界を攻め乙丑東柯谷に入ると部将劉鐸が戦ってこれを敗った。丙寅、平章政事布薩揆に汴で行省させ便宜従事を許すことを詔し、諸道統軍司を升して兵馬都統府とし、山東東西路統軍使赫舎哩執中を山東西路兵馬都統使とし、定海軍節度使副都統軍使完顔薩喇がこれを副とし、陝西統軍使充を陝西五路兵馬都統使とし、通遠軍節度使和碩知臨洮府事舒穆嚕仲温がこれを副とし、河南はみな揆の節制に聴くこと故のごとくとし、諸道の籍兵を尽く徴した。辛未、宋呉曦が来遠鎮の蘭家嶺を攻めた。丙子、諸職官が馬を納めるにそれぞれ数があることを詔した。丁丑、宋人が新息・内郷に入り、また泗州に入った。戊寅、褒信に入り、己卯、虹県に入り、庚辰、頴上に入った。五月壬午、宋の李爽が夀州を囲み田俊邁が蘄州に入り、秦詵が蔡州を攻めると防禦使完顔仏珠がこれを敗った。また金城海口に入り長山尉を殺し二巡検を執って去った。甲申、太白が昼見した。丙戌、宋が盟に畔いたことをもって出師を天地・太廟・社稷に告げた。丁亥、衍慶宮で親告した。戊子、平章政事布薩揆を兼左副元帥とし、陝西兵馬都統使充を元帥右監軍とし、知真定府事烏庫哩誼を元帥左都監とした。辛卯、征南をもって中外に詔し、唐州刺史烏克遜鄂屯・総押鄧州兵馬事完顔江山に爵をそれぞれ二級、蔡州防禦使完顔仏珠に爵一級を賜り、余は賞賚に差をつけ、また非厳整が上変したことでかならず誤られていたのを免れたとして整を嵩州巡検使に授け爵八級・銭二百万を賜った。上は宋兵がまさに熾んで東北の新調の兵が未だ集まらず河南の衆は支えるに足りないことをもって、河北・大名・北京・天山の兵一万五千を真定・河間・清・獻等に屯め呼応に備えさせることを命じた。壬辰、尚書省に「今、国家に多故なので凡そ軍国の利害を言う五品以上官は次いで奏陳せよ、朕は将にこれを親問しよう、六品以下は帖子を具して進めよ」と諭した。癸巳、山東路が災をもって死罪以下を赦した。樞密副使完顔匡を右副元帥とした。宋の田俊邁が宿州を攻めると安国軍節度副使納喇邦烈らが兵を出しこれを撃ったが邦烈は流矢に中った。宋の郭倬・李汝翼が衆をもってこれに継ぎ遂に宿州を囲むと壬寅、納喇邦烈らがこれを撃破し、俊邁は退いて蘄を保った。癸卯、蘄で俊邁を執えた。甲辰、皇甫斌が唐州を攻めると刺史烏克遜鄂屯がこれを拒み、行省が泌陽副巡検納哈塔軍勝を遣わして援に来させこれを敗った。庚戌、太白が経天した。六月辛亥朔、左丞布薩端が母の憂により罷された。平章政事揆が蘄の捷を報じ護送した宋将田俊邁を闕に至らせると、上は詔を降して褒諭し赫舎哩貞・納喇邦烈・薩克逹らに爵賞を差をつけて賜った。宋将李爽が兵をもって夀州を囲むと刺史図克坦羲は月を踰えて拒守しても下せなかった。壬子、河南統軍判官竒珠及び邁格らが兵をもって援に来ると羲は兵を出しこれに応じ、爽は敗れ同知軍州事布埓は軍中で流矢に中り死んだ。乙夘、初めて急逓鋪腰鈴転逓を置き日行三百里とし、軍期・河防でなければ起馬させないこととした。軍前で差発に贓罪を受けた場合の罪法を定め、飛蝗が境に入り禾稼を食わなくても罪に坐するとした。丁巳、彰徳府の宋韓侂胄の祖・琦の墳を損壊させず樵採を禁じることを詔した。庚申、右翼都統完顔薩布が宋の曹統制を溱水で敗った。辛酉、宋の宗族が居する所を有司に具さに聞かせ長官に常に提控を加えることを詔した。壬戌、平章政事揆が夀州の捷を報じた。戊辰、夀州を防禦に升し今年の租税・諸科名銭を免じ死罪以下を釈すことを詔した。図克坦羲を防禦使とし、布埓に昭勇大将軍を贈り銭三百貫を賜り、その子図喇を官とし、竒珠を昌武軍節度使事に同知として擢し、邁格・河南路統軍判官・都統薩布・副統布希万努はそれぞれ爵一級を進め金幣を差をつけて賜った。辛未、木星が昼見し七月戊申に至り経天した。乙亥、宋呉曦が塩川を攻めると戍将完顔王喜がこれを敗った。秋七月癸未、宋の商栄が復び東海県を攻めると令完顔綳森が復びこれを敗ったが還るとき伏矢に中り死んだので海州刺史を贈り銀五百両・絹百匹をその家に給し官一子とした。甲申、衍慶宮で朝献した。丁亥、翰林直学士陳大任に専修遼史を本職とすることを勅した。甲午、宋の統制戚春が舟師をもって邳州を攻めると刺史完顔従正がこれを敗り春は水に赴いて死に、その副を斬った。夏の統制呉曦が兵五万で秦州に入ると陝西路都統副使承裕らがこれを敗った。丙申、夏国王李純祐が姪の安全を廃し立てたことを使者を遣わし奉表来告した。馬の外境入りを禁じ、境に至って売ろうとする者を捕えれば死に論ずることを詔した。八月庚戌、山東帥が邳州の捷を報じた。辛亥、木星が晨見した。乙夘、羌酋青伊克を疊州副都総管とした。己未、太白が昼見した。丙寅、左丞布薩端が起復し前職に復した。平南諸将軍を設けることを詔した。辛未、宋の程松が方山原を襲取すると富察貞がこれを破走した。壬申、太白が昼見・経天した。甲戌、万寧宮より至った。乙亥、唐・鄧・潁・蔡・宿・泗の六州を赦し来年の租税三分の一を免じた。九月己夘朔、天寿節に高麗が使者を遣わし賀した。辛巳、元帥右都監富察貞が和尚原を取った。臨洮の番部遵寧が芻粟戦馬を献じて軍を助けた。乙酉、まさに五鼓に北方の赤白の気数道が王良の下に起こり北斗の開陽・搖光の東に行き至った。丙戌、香山に幸した。庚寅、行尚書省に方略に出衆し武芸絶倫で才幹弁事し工巧が人に過ぎる者があればこれを招選せよと勅した。甲午、参知政事賈鉉が致政を乞うたが許さなかった。戊戌、尚書左丞布薩端が汴で行省した。己亥、尚書戸部尚書梁鏜が山東で六部尚書事を行った。辛丑、尚書左司郎中温特赫思敬を遣わし李安全を夏国王に冊した。甲辰、宋呉曦の将馮興・楊雄・李珪らが秦州に入ると陝西都統副使承裕らがこれを撃破し楊雄・李珪を斬った。冬十月戊申朔、平章政事布薩揆が諸道兵を督して宋を伐った。庚戌、揆は行省兵三万をもって潁夀に出、河南路統軍使赫舎哩子仁は兵三万をもって渦口に出、元帥匡は兵二万五千をもって唐鄧に出、左監軍赫舎哩執中は山東兵二万をもって清口に出、右監軍充は闗中兵一万をもって陳倉に出、右都監富察貞は岐隴兵一万をもって成紀に出、蜀漢路安撫使完顔綱は漢番歩騎一万をもって臨潭に出、臨洮路兵馬都総管舒穆嚕仲温は隴右の部騎五千をもって塩川に出、隴州防禦使完顔璘は本部兵五千をもって来遠に出た。甲子、近郊で猟をした。十一月戊寅朔、諸州府の物力差役式を定めた。壬午、完顔匡が棗陽を攻め下した。乙酉、屯田軍戸が所居の民と婚姻することを詔した。丁亥、布薩揆が安豊軍を克し霍邱県を取った。赫舎哩執中が淮陰を克した。遂に楚州を囲んだ。己丑、尚書省が朝官及び承応人の月俸折支銭を減じることを奏した。庚寅、完顔匡が光化軍及び神馬坡を克した。壬辰、布薩揆が廬江に次った。宋の督視江淮兵馬事邱崈が劉祐を遣わし乞和に来た。赫舎哩子仁が定遠県を克した。乙未、完顔匡が随州を取った。丙申、赫舎哩子仁が滁州を克した。戊辰、諸路に小鈔を行用することを詔した。完顔匡が徳安を囲みまた別に兵をもって安陸・応城・雲夢・孝感・漢川・荊山等県を徇下した。庚子、日が斜め流星二があり光芒炬のようで一丈近く起こり東北より東南に没した。初めて茶禁を定めた。完顔綱が祐州を囲み降した。宋の邱崈が林拱を遣わし書を持たせ乞和した。辛丑、完顔匡が襄陽を攻めその外城を破った。布薩揆が含山を克した。富察貞が天水を克した。赫舎哩子仁が来安・全椒二県を徇下した。壬寅、完顔綱が茘川・閭川等城を徇下した。癸夘、邱崈が復び宋顕らを遣わし書幣をもって乞和した。乙巳、完顔綱が宕昌を克した。丙午、富察貞が西和州を克した。十二月丁未朔、完顔匡が宜城を克した。布薩揆が和州を攻めると薩克逹が流矢に中り死んだ。壬子、完顔綱が大潭県に次り降した。富察貞が成州を克した。癸丑、宋の太尉昭信軍節度使四川宣撫副使呉曦が完顔綱に納款した。戊午、右監軍充が大散関を攻め下した。己未、赫舎哩子仁が真州を克した。邱崈が復び陳璧らを遣わし書を奉じて乞和した。辛酉、右監軍充がウヤ雅綽哈を遣わし兵をもって鳳州に趣くとその城が潰れて入った。完顔綱が京兆録事張仔を遣わし呉曦と興州の置口で会わせ、曦は具さに帰朝の意を言い、仔はその告身を報とすることを請いことごとくこれを付し、なお階州を献じた。乙丑、初めて都提控急逓鋪官を設けた。平章政事布薩揆が班師した。完顔綱は朝命により太倉使馬良顕をもって詔書金印を齎させ呉曦を蜀王に立てた。戊辰、富察貞が西和・天水等の捷を来報し、完顔匡は掠めた女子百人を進めた。己巳、曦は果州団練使郭澄・提挙仙人関使任辛を遣わし表及び蜀地図志・呉氏譜牒を奉じて上らせた。壬申、完顔匡に権尚書右丞行省事とし右副元帥は故のごとくとすることを詔し、赫舎哩執中が擄掠を縦にしたことに近臣を遣わしその経厯阿爾巴斯らを杖し、なお掠めた所を放還させることを詔した。
泰和七年(1207年)
- 春正月丁丑朔、高麗・夏が使者を遣わし賀した。完顔匡が襄陽を攻めた。戊寅、宰臣に材幹官を挙げて同議南征事させることを勅した。辛巳、御史大夫崇肅・同知大睦親府事図克坦懐忠・吏部尚書范楫・戸部尚書高汝礪・礼部尚書張行簡・知大興府事温特赫思斉ら十四人が慶和殿で同対することを詔した。壬午、百官及び前記十四人が広仁殿で同対することを詔した。甲申、衍慶宮で朝献した。乙酉、故夀州死節軍士魏全に宣武将軍蒙城令を贈り、その妻を鄉君に封じ子が十五歳になれば八貫石正班局分承応に収充させ銭百万を賜った。戊子、完顔綱を闕に召した。庚申、布薩揆が下蔡に還り駐まったが病んだ。丙申、左丞相崇浩に兼都元帥として南京で行省させ揆に代えた。己亥、有司が茶禁を更定することを奏した。辛丑、完顔匡が穀城を取った。二月丙辰、鳳・成・西和・階・山の五州を赦した。丁巳、永中・永蹈の王爵を追復することを詔した。宋の知樞密院張巌が方信孺を遣わし書を平章政事揆・左丞端に詣らせ乞和した。己未、近郊で猟をした。完顔匡が荊門軍を克した。癸亥、建春宮に如った。呉曦が使者を遣わし三表を奉じ封爵を謝し誓言を陳べ全蜀の内附を賀した。丙寅、宮に還った。戊辰、平章政事兼左副元帥布薩揆が軍で薨じた。癸酉、同知府事珠格高琪らを遣わし呉曦を蜀国王に冊した。判平陽府事衛王永済を武定軍節度使兼奉聖州管内観察使に改めた。この月蜀国王呉曦は宋臣安丙に殺された。壬辰、初めて蟲蝻が生発した地の地主及び隣主が首申しない罪を定めた。宋が復び階州を攻め破った。癸巳、復び西和州を攻め破った。乙未、宣撫副使完顔綱が鳳翔に至ると鳳・成等五州の兵を分けて要害を保つよう撤兵を詔し、綱は諸軍を召還した。庚子、完顔匡を左副元帥とした。壬寅、万寧宮に如った。甲辰、西園に幸した。夏四月壬子、宮籍副監楊序を遣わし横賜高麗王使とした。癸丑、宋人が散関を攻め破ると鞏州鈐轄烏雅愛実がこれに死した。丙辰、赫舎哩子仁を右副元帥とした。戊辰、元帥府に諸将を分遣し淮南諸州を遊奕させることを詔した。癸酉、復び散関を下した。五月己夘、東園に幸し柳を射た。己丑、玉泉山に幸した。丙申、宋の知樞密院事張巌が復び方信孺を遣わし都元帥府に書を至らせ嵗幣を増し乞和した。四州安撫使安丙が西和州安撫使李孝義を遣わし歩騎三万で秦州を攻め皂角堡を囲むと珠格高琪が兵をもってこれに赴き七戦してその囲みを解いた。この月宮女二十人を放った。六月乙巳朔、朝官六品・外官五品以上及び親王に錢穀官一人を挙げることを詔し、挙げない者は罰しその挙が不当な者は律のごとく論ずることとした。己酉、山東の盗賊に同党で自ら殺捕して出首する者があれば官賞法を制した。戊午、烏庫哩誼を元帥左監軍とし完顔薩喇を元帥左都監とした。乙丑、使者を遣わし蝗を捕えさせた。秋七月庚辰、衍慶宮で朝献した。壬午、民間の交易は典質一貫以上は並びに交鈔を用い銭を用いないことを詔した。乙酉、尚書省に初めて監察を受けた者には利害の帖子を進めて召見を待たせることを勅した。甲午、左副元帥匡が許州より至った。乙未、西夏人口を覈すことを詔しことごとく贖い放還させ敢えて藏匿する者は違制をもって論じた。八月戊申、宋の張巌が復び方信孺を遣わしその主の誓書藁を齎して乞和した。庚戌、汝州襄城県を許州に割いた。戊辰、万寧宮より至った。九月甲戌朔、天寿節に高麗・夏が使者を遣わし賀した。左丞相兼都元帥崇浩が軍で薨じた。甲申、西北京遼東の鹽司判官諸塲管句増虧升降格を定めた。尚書左丞布薩端を平章政事とし申国公に封じ、左副元帥完顔匡を平章政事兼左副元帥とし定国公に封じた。丙戌、近郊で猟をした。壬辰、宮に還った。戊戌、受制忘誤及び誤写制書の罪を更定して加等した。壬寅、女直人が漢姓に改め南人の装束を学ぶことを勅禁した。冬十月甲辰、応廕の家は旁廕がその正廕を足らせその正廕は未出官のうちに亡くなった場合は補廕一人を許すことを詔した。辛亥、武庫令珠嘉仏新を高麗生日使とした。丙辰、近郊で猟をした。己巳、隨軍遷賞格を詔定した。辛未、陝西宣撫使図克坦鎰が副統巴噶罕を分遣し蘇嶺闗を攻め下した。この月南征将士功賞格を定めた。十一月癸酉、新定の学令の内に薛居正五代史を削り欧陽修撰を用いることを詔した。この日都統雅爾拔が鶻嶺闗新道口を拔り副統把噶罕が小湖闗・敖倉を取り営口鎮に至り遂にその城を取った。丙子、宋の韓侂胄が左司郎中王柟を遣わし書をもって乞和し伯と称すること・嵗幣を増すこと・犒軍銭・蘇師旦を誅しその首を函じて献じることを請うた。丙戌、陝州防禦使赫舎哩博索が民に糶を禁じたことを聞き尚書省にこれを罪させた。壬辰、宋の参知政事銭象祖が韓侂胄を誅したことをもって行省に書を移した。甲午、近郊で猟をした。戊戌、参知政事賈鉉が罷され、完顔匡に宋を檄し侂胄の首を函じて淮南の故地を贖わせることを詔した。十二月壬寅朔、遼史が成った。丙午、符宝郎烏庫哩福齢を夏国生日使とした。詔で策論進士に弓箭撃毬の試を免じた。庚申、尚書右丞孫即康を左丞とし、参知政事通吉思忠を右丞とし、中都路都運使孫鐸を参知政事とした。
泰和八年(1208年)
- 春正月辛未朔、高麗・夏が来賀した。壬申、衍慶宮に朝謁した。癸酉、大鈔を毀して小鈔を行い元帥左都監完顔薩喇を参知政事とした。乙亥、宋の安丙が兵を遣わし鶻嶺闗を襲うと副統把噶罕・完顔果囉がこれを撃走しその将景統領を斬った。丙子、左司郎中劉昻・通州刺史史肅・監察御史王宇・吏部主事曹元・吏部員外郎図克坦永康・太倉使馬良顕・順州刺史唐古卓克索巴は蒲陰令太中と朝政を私議したことに坐しみな杖された。癸未、春水に如った。丙戌、廣春宮に如った。二月乙巳、宋の参知政事銭象祖が王柟を遣わし来て書をもって行省に上げ復び川陝関隘を請うた。甲寅、建春宮に如った。庚申、有司に方に農作の時であれば禁地であっても耕種させることを諭した。己巳、宮に還った。三月丁亥、瀛王第に幸し疾を視た。庚寅、宋との和をもって尚書省に諭した。壬辰、宰臣が謝罪を表した。甲午、瀛王従憲が薨じた。乙未、上が親ら祭に臨んだ。夏四月癸夘、日暈が三重で皆内黄外赤であった。戊申、太廟で禘した。庚戌、万寧宮に如った。甲寅、北辺無事をもって尚書省に東北路招討司を泰州に還治させ節度使を兼ねさせなおその副招討は辺に置くことを勅した。有司に苗稼まさに興らんとするのを速やかに官を分道遣わし農事を巡行し蟲蝻に備えさせることを詔した。明安穆昆承襲程試格を更定した。宋の銭象祖が復び王柟を遣わし書をもって行省に上げた。閏月辛未、諸路按察司の歳賜公用銭を詔した。翰林侍講学士富察烏延が使宋の官はよく選ぶべきことを言い、その言は当を得たとされ、上は「彼の通謝使は未だ闕に到っていないが、その報聘の人はまさに先に議して選ぶべきであり、これより更始して永例とせよ、慎まざるべからず」と諭した。甲戌、諸州府司県の造作は諸色人匠を役してはならず違う者は私役の律をもって計傭し所監臨の財物を受けたものとして論ずることを制した。甲申、承応人の収補年甲格を定めた。甲午、雨雹があった。保甲軍が南軍官を殺獲した賞を定めた。乙未、宋が韓侂胄らの首を元帥府に献じた。五月丁未、応天門に御し黄麾立仗を備え親王文武が合班起居し、中路兵馬提控平南撫軍上将軍赫舎哩貞が宋の賊臣韓侂胄・蘇師旦の首を献じたことを元帥府の露布をもって聞かせると、その首を懸け画像を市に懸け露布をもって中外に頒った。丙辰、平章政事匡が軍より至った。己未、元帥府を樞密院に更めた。癸亥、天寿節を十月十五日に移すことを詔した。丁夘、使者を分遣し蝗を捕えさせた。六月癸酉、宋の通謝使朝議大夫試礼部尚書許奕・福州観察使右武衛上将軍呉衡らがその主の書を奉じて入見した。甲戌、衍慶宮に謁謝した。癸未、宋との和をもって中外に詔し河南・山東・陝西等六路の今年夏税を免じ、河東・河北・大名等五路はその半を免じた。丁亥、元帥左都監烏庫哩誼を御史大夫とした。戊子、飛蝗が京畿に入った。乙未、服飾の明金象金制を定めた。丁酉、副都点検完顔侃を宋諭成使とし礼部侍郎喬宇がこれを副した。秋七月戊戌朔、太白が昼見した。庚子、蝗蟲生発坐罪法を更定することを詔した。乙巳、衍慶宮で朝献した。捕蝗図を中外に頒つことを詔した。戊申、宋使が朝辞し答通謝書及び誓書を宋主に致した。八月壬申、遼東行使鈔法を更定した。癸酉、建春宮に如った。己丑、戸部尚書高汝礪らを宋生日使とした。庚寅、秋山に如った。九月甲子、吏部尚書賈守謙ら十三人を遣わし各路の按察司官と推排民戸物力を行わせた。乙丑、秋山より至った。冬十月辛未、吏部郎中郭郛を高麗生日使とした。辛巳、宋・高麗・夏が使者を遣わし賀した。夏国に兵があり使者を遣わし来告した。癸未、安泊強竊盗罪格を更定した。辛夘、軍民が共に廉能官と誉める者は善最法を条附することとした。十一月丁酉朔、諸路按察使を並びに転運使を兼ねさせ、初めて三司使を設け塩鉄度支勧農事を掌らせ、樞密使赫舎哩子仁を兼三司使とした。癸夘、尚書省を戒諭した。国家の治は紀綱にあり紀綱の先にすべきものは賞罰を必ず信とすることだ、今すなわち上は省部の重きより下は司県の間に及ぶまで律度は私懐に循い自便を求め遷延曠歳し苟且として風習をなしている、これを恒とすればどうして理に致せようか、朝廷は百官の本、京師は諸夏の儀たる、まさに自ら勗め今より各々已往を懲らしめ縄を遵じ法を奉じ力を竭くし功に赴き枉撓なく循情なく違いを依らず勢を避けることなく壱に正に帰し以て民を範とせよと。この日臨武殿に御して護衛を試した。丁未、臨潢泰州路の兵馬都総管承裔らに辺備を修めることを勅諭した。上は不予となり、丙辰、福安殿で崩じた。年四十一。大安元年春正月、諡を憲天光運仁文義武神聖英孝皇帝と上げ廟号を章宗とした。二月甲申、道陵に葬った。
史論
- 賛にいう。章宗は在位二十年、世宗の治平が久しかったことを承け宇内は小康であった。そこで禮楽を正し刑法を省き官制典章文物を定め粲然として一代の治規をなし、また屡々群臣に漢の宣帝の綜核名実・唐代の考課の法を問い、遼・宋を跨いで漢・唐に比跡しようとした、これもまた治に志があったと言えよう。しかし嬖寵が朝を擅にし冢嗣が立たず宗室を疏忌して伝授の人を得なかったため、かつて維持鞏固しようとした久遠の計は徒に文具となり後世子孫の一日の用にすらならなかった、金源氏はこれより衰えた。昔、楊雄氏が「秦の有司は秦の法度に負き、秦の法度は聖人の法度に負く」と言ったのはこの理があってのことであろう。