金史卷二 本紀第二 太祖
太祖応乾興運昭徳定功仁明荘孝大聖武元皇帝、諱は旻、本諱は阿骨打(1068–1123年)。世祖の第二子。女直完顔部の首長として遼への蜂起を主導し、収国元年(1115年)に皇帝位に即いて国号を大金と定めた金朝の建国者。寧江州・上京・燕京などを次々に攻略し遼を滅亡寸前まで追い詰めた。
年表(10件)
- 咸雍4年戊申1068年世祖の第二子として生まれる
- 康宗
- の7年1109年盗賊への重罰を緩め徴償の法を減じる
- 癸巳の歳1113年康宗の死により位を襲い達勒貝勒(都勃極烈)となる
- 2年甲午9月1114年寧江州に進軍し遼への挙兵に踏み切る
- 収國元年9〜10月1115年達魯古城で遼軍を大破し寧江州を克つ
- 収國元年正月壬申朔1115年皇帝位に即き国号を大金と定め収国と改元
- 収國二年1116年高永昌の乱を討ち東京を平定
- 天輔六年1122年中京・西京を取り遼主を追う
- 天輔七年1123年燕京を取り遼の百官が降る
- 天輔7年8月戊申1123年布図濼西行宮で崩じる。年五十六
出自と生い立ち
- 太祖応乾興運昭徳定功仁明荘孝大聖武元皇帝、諱は旻、本諱は阿骨打。世祖の第二子で、母は翼簡皇后の紇石烈氏。遼の道宗の時、五色の雲気がしばしば東方に現れ、大きさは二千斛の囷倉ほどもあり、司天の孔致和がひそかに人に「その下にきっと異人が生まれ非常の事を建てるだろう」と語ったという。咸雍4年戊申(1068年)7月1日、太祖は生まれた。幼時に群児と遊ぶとき力は数輩を兼ね、挙止は端重で、世祖はことに愛した。世祖が拉必・瑪察と野鵲水で戦い四創を被り困窮して坐した時、太祖を膝に乗せその髪を撫でて「この子が長大すれば私に何の憂いがあろうか」と言った。十歳で弓矢を好み、成童になるとすでに善射で、ある日遼の使者が府中に坐した際、太祖が弓矢を手に群鳥を射て連発ことごとく中てるのを見て、遼使は驚いて「奇男子だ」と言った。太祖はかつて赫舍哩部の胡里罕の家で宴し門外を散歩して南方の高阜を望み、衆にこれを射させたがみな及ばず、太祖が一発でこれを越え、及んだ距離は三百二十歩を超えたという。宗室の们图琿が最も遠くまで射たが、及ばぬこと百歩ほどであった。天徳3年(1151年)に射碑を立てて記した。世祖が布戸を伐った際、太祖は希卜蘇を通して従軍を請ったが、世祖は許さず、しかし心中では彼を異とした。烏春がすでに死に烏木罕が和を請い、和した後にまた来攻して城を囲んだ時、太祖は年23で短甲を被り冑を免れ馬を鎧わずに囲みを行き号令を諸軍に発したため、城中はこれを望んで識った。壮士の托雲が駿馬に乗り槍を持って城を出て太祖を馳せ刺そうとしたが、太祖は備えが及ばず、舅の和爾和が馳せ出てその間を遮り托雲の槍を撃って折り、その馬を刺したため托雲はかろうじて免れた。かつて扎呼岱と出営して殺略し世祖に知らせなかったこともあり、敵に重兵で追われた際、独行の隘巷で道を失ったが追う者が急に迫った時、高岸に馬が一躍で越え追う者は還った。世祖が寝疾に臥した際、太祖は用事で遼の統軍司に行こうとしたが、世祖はこれを戒めて「汝は速やかにこの事を終えよ。五月末までに帰れば私はまだ汝に会えるだろう」と言った。太祖は往って和囉木薩噶統軍に見え、事を畢えて世祖の没する前日に家に還り着いた。世祖は太祖が来て請うた事がみな志の通りになったと知り大いに喜び、太祖の手を執りその頸を抱いて撫で、穆宗に「烏雅束は柔善だ、ただこの子だけが契丹の事を了することができよう」と言った。穆宗もまた太祖を重んじ出入りに必ず伴い、太祖が遠出して帰る時は穆宗は必ず自ら迎えた。世祖がすでに拉必・瑪察を擒えて後、瑪察はなお哲隣水に拠り、粛宗は太祖にまず瑪察の家属を取らせ、康宗が哲隣水に至って囲むと太祖は軍を会して自ら瑪察を獲て馘を遼に献じた。遼は太祖を詳衮とし、穆宗・希卜蘇・罕都もみな詳衮とした。ほどなく偏師で尼庞古部を伐ち、跋忽・布爾噶らを郷導とし屯河に沿って夜行し襲撃してその妻子を虜にした。初め温都部の跋忒が唐括部の八可を殺し、穆宗が太祖に伐たせた際、太祖は入って辞するにあたり穆宗に「昨夕赤祥を見た。この行は必ず敵に克つ」と言い、この歳大雪で寒さ甚だしいなか、夾谷部の兵と屯水に沿って摩琳郷を過ぎ、跋忒を額斯琿山の北濼の間で追及して殺した。軍が還ると穆宗は自ら阿勒錦村で太祖を迎えた。撒改が都統として乙劾晝多を伐ち们图琿・実图美が逹薩塔を伐った時、撒改は将佐と辺地の部落城堡をまず平らげようとするか、直ちに乙劾晝多城を攻めるか議して決められず、太祖が軍中に至ることを望んだため、穆宗は太祖を遣わし「事に疑いあらば必ず未発の軍が有る」と言い、甲士七十人だけを尽くこれに与えた。们图琿が穆嚕密斯罕城の下にあり、実图美が未だ至らぬうちに土人が们图琿を執えて敵に与えようとしていると急を告げる者が実都甸で太祖に遇った。太祖は「国兵はここに尽く在る。敵にまず们图琿で志を得させれば、後に種を誅しても何の益があろうか」と言い、甲士四十をこれに分けた。太祖は三千人をもって撒改の軍に詣で、道で「敵はすでに佛寧嶺の南路に拠った」と言う者に遇い、衆は沙斑嶺を由って行こうとしたが、太祖は「汝らは敵を畏れるのか」と言った。佛寧嶺を渡っても敵を見ず、ほどなく敵が沙斑嶺を守って我らを拒んでいると聞くと、撒改の軍に至り夜急にこれを攻め、明け方にはその衆を破った。この時、乙劾晝多・烏塔はともに遼にあり、すでに乙劾晝多を破ってから復び烏塔城を攻めると城中の人は城をもって降った。初め太祖が佛寧嶺を過ぎ烏塔城の下を経た際、従騎に遅れた者があり烏塔城人がその釜を攻め奪った。太祖は馬を駐めて「私の炊食器を取るな」と呼んだが、その人は「公がここに来られたなら食事の心配は無用でしょう」と謾言した。太祖は鞭で指して「私が乙劾晝多を破れば、汝からこれを取ろう」と言い、この時に至りその人が釜を持って前に出て「奴輩はどうして詳衮の器を毀すことなどしましょうか」と言った。普嘉努を遣わして晝多を招くと晝多は降り、これを釈した。穆宗が蕭哈里を伐とうとし兵を募って千余を得た際(女直の兵が千に満たなかったことは未だ無かった)、太祖は勇気が自ら倍し「この甲兵があれば何事も図れよう」と言った。哈里が戦いに来て遼兵と合したため、遼人だけを止めて自ら戦った。渤海の留守が甲を太祖に贈ったが、太祖はまた受けなかった。穆宗がなぜ受けないのかと問うと「彼の甲を被って戦い、戦って勝てばこれは彼の力によって功を成すことになる」と答えた。穆宗の末年、諸部に信牌を勝手に置くことを禁じ馳駅で事を訊ねる号令はこれより始まったが、みな太祖から発したものである。康宗の7年(1109年)、歳が登らず民は多く流殍し、強者は転じて盗となったため、罕都らはその法を重くし盗を為す者はみな殺そうとした。太祖は「財をもって人を殺すことはできない。財は人が招くものだ」と言い、盗賊の徴償の法を減じ徴すること三倍とした。民間には多く逋負があり妻子を売っても償えない者がいたため、康宗が官属と会議した際、太祖は外庭にあり帛を杖端に繋いでその衆を麾き令して「今、貧しい者は自活できず妻子を売って償う。骨肉の愛は人心の同じくするところ。今より三年徴すな。三年を過ぎてから徐々に図ろう」と言うと、衆はみな聴令し、聞く者は感泣した。これより遠近は心を帰した。癸巳の歳(1113年)10月、康宗は夢に狼を逐って屡々発したが中てられず、太祖が前に射てこれを中てた。翌日、夢を遼の佐に問うと衆は「吉である、兄が得られなかったものを弟が得た兆だ」と言った。この歳、康宗が世を即(去)った。太祖は位を襲って達勒貝勒(都勃極烈)となった。遼の使者阿息保が来て「なぜ喪を告げないのか」と讓めたが、太祖は「喪あって弔うことができないのに、罪となすのか」と言った。後日、阿息保が復び来て康宗の殯所に直に騎馬で至り賵馬を閲して取ろうとしたため、太祖は怒りこれを殺そうとしたが宗雄が諫めて止めた。ほどなく遼の命が久しく至らず、遼主は畋猟を好み淫酗して政事を怠り、四方の奏事はしばしば省みられなかった。夾谷阿疎はすでに遼に奔り、穆宗はその城とその部衆を取ったが帰ることができず、ついに族弟の尼楚赫・薩里罕と密かに南江居人の歓塔・博索と結んでともに高麗に逃げ入ろうとしたが、事が発覚し太祖は夾谷撒改にこれを捕らえさせたが、尼楚赫・薩里罕はすでに遼の戍に捕らえられ、歓塔・博索はすでに逃げ去った後だった。撒改はその妻子を取って還った。
収國元年(1115年)
- 2年甲午(1114年)6月、太祖は江西に至り、遼の使者が来て節度使を襲うことを命じた。初め遼は毎年名鷹の海東青を海上に市め、使者が境内を通る道で貪縦・徴索が甚だしく、公私はこれに苦しんでいた。康宗はかつて夾谷阿疎を遣らさないことをもってこれを言い、やや遼の使者を拒んでいた。太祖は節度使を襲うと普嘉努を遣わし夾谷阿疎を索めさせた。この二つの理由がついに遼を滅ぼすまでの言い分となる。ここに至り復び宗室の完顔実古納・完顔尼楚赫を遣わして阿疎を索めると、実古納らは還って遼主の驕肆廃弛の状を具に言った。ここで官僚耆旧を召し伐遼の意を告げ、衝要に備え城堡を建て戎器を修めて後命を聴かせた。遼の統軍司はこれを聞き節度使の耶律糺里に問わせて「汝らに異志があるのか、戦具を修め守備を飭むのは誰を禦ぐつもりか」と言わせると、太祖は「険を設け自ら守るだけだ、何を問うことがあろうか」と答えた。遼が復び阿息保を遣わして詰めると、太祖は「我は小国だ。大国に事えて礼を欠かなかった。大国が徳沢を施さず逋逃を主として匿うなら、これで小を字むと言えようか。望みもなくなる。もし阿疎を我に与えるならば事を朝貢に請う。もし已むを得なければ束手して制を受けられようか」と言った。阿息保が還り、遼人は初めて備えをなし統軍の蕭撻不也に諸軍を寧江州に調させた。太祖はこれを聞き富家奴を遣わし復び阿疎を索めさせ実にその形勢を観させると、富家奴は還って「遼兵は多くその数を知れない」と言った。太祖は「彼が初めて兵を調してどうしてこれほど遽かに集められようか」と言い、復び華沙布を遣わして往かせると還って「四院統軍司と寧江州軍及び渤海の八百人だけだ」と言った。太祖は「果たして私の言った通りだ」と言い、諸将佐に「遼人は我が兵を挙げようとしていることを知り諸路の軍を集めて我に備えている。我は必ず先に発してこれを制すべきだ、人に制されてはならない」と言うと衆はみな善しとした。そこで入って宣献皇后に見え伐遼の事を告げると、后は「汝は父兄を嗣ぎ邦家を立てた。可ならば行け。私は老いた、私に憂いを残すな。汝は必ずここまでには至らないだろう」と言った。太祖は感泣し觴を奉じて寿とし、后を奉じて諸将を率いて門を出て觴を挙げ東に向かい、遼人の荒肆と阿疎をすでに用い匿っている意をもって皇天后土に禱った。酹を終えると后は太祖に正坐させ僚属とともに飲ませ、諸部に号令させ、博勒和に伊蘭路の都古嚕納の兵を徴させ、烏楞古・阿嚕に幹琿・集賽両路の係遼籍女直を撫諭させ、薩卜丹に安図路に往かせ遼の障鷹官の逹嚕噶部の副使の色埓と寧江州の渤海の大嘉努を執えさせた。逹嚕噶部の色爾衮が「兵を挙げて遼を伐つと聞いた。我が部は誰に従うべきか」と告げると、太祖は「わが兵は少ないが旧国だ。汝と隣境なので当然我に従うべきだ。もし遼人を畏れるなら自ら彼らのもとへ行け」と言った。9月、太祖は寧江州に進軍し寥晦城に次った。博勒和は徴兵に後れたため杖にし、復び督軍を遣わし諸路の兵をことごとく拉林水に会させ、二千五百人を得た。遼の罪を告げ天地に申して「世々遼国に事え恪んで職貢を修めた。麻産・窩謀罕の乱を定め蕭哈里の衆を破って功があったのに省みられず侵侮を加えられた。罪人の阿疎はしばしば請うても遣られなかった。今、遼に問罪しようとしている。天地よ、これを鑒佑せよ」と言い、諸将に挺を伝えて誓わせ「汝らが同心して力を尽くし功ある者は、奴婢部曲であれば良庶人となし、官もある先に官のある者は輕重を敘進し功を眡る。もし誓言に違えば身は梃下に死し家属は赦されぬ」と誓った。師が唐古特・旺結の地に次った時、諸軍は禳射して介立し、光あって烈火のように人足と戈矛の上に起こり、人はこれを兵祥とした。翌日、扎扎水に次ると光は初めと同じく現れた。遼界に至ろうとした頃、まず宗幹に士卒を督させ塹を渡らせようとし、渡ろうとした際、渤海の軍が我が左翼を攻め七穆昆の衆は少し却いたが、敵兵は直ちに中軍を犯した。舎音が戦に出て斉達を先駆けとしようとしたが、太祖は「戦は易くしてはならない」と言って宗幹を遣わしこれを止めた。宗幹は馳せ出て舎音の前に斉達の馬を控止し、舎音はついに俱に還ったが、敵人はこれに従った。耶律謝十は馬から墜ち遼人が前で救おうとしたため、太祖は救う者を射て斃し併せて謝十を射てこれに中てた。騎射する者が前に突いてきたためこれもまた射ると、鎧を徹して胸を洞ける、謝十は箭を抜いて走ったがこれを追射して背に中り、矢を半ば飲ませたところで僨れて死んだ。乗馬を獲た。宗幹が数騎で遼軍中に陥ったため、太祖はこれを救おうと冑を免して戦い、あるいは傍らから射られ矢が額をかすめたが、太祖は射た者を見て一矢でこれを斃し将士に「敵を尽くすまで止めるな」と言うと、衆はこれに従い勇気は自ら倍した。敵は大いに奔って相い蹂躙し、死者は十七八に及んだ。撒改は別路にあって会戦に及ばなかったが、人をもって戦勝を告げると謝十の馬をこれに賜った。撒改はその子の宗翰と完顔希尹を遣わして賀に来させ、且つ帝号を称するよう勧めたが、太祖は「一戦して勝っただけで大号を称すれば人に示すこと浅いのではないか」と言い、寧江州に進軍した。諸軍は塹を填めて城を攻め、寧江の人は東門から出たが紇石烈額図琿がこれを邀撃してことごとく殪した。10月朔、その城を克ち防禦使の大薬師努を獲え、これを縦って遼人を招諭させた。鉄驪部が来て款を送ってきた。拉林城に次り俘獲を将士に賜った。渤海の梁福・斡答剌を召して偽って亡げさせその郷人を招諭させ「女直と渤海はもと一家。我が興師伐罪は濫りに無辜には及ばぬ」と言わせた。完顔羅索に係遼籍女直を招諭させた。師が還ると宣献皇后に謁え獲た物を宗室耆老に頒ち、色爾衮の貲産を将士に給した。初め諸路に三百戸を穆昆とし十穆昆を明安とすることを命じ、綽哈らに撒葛水女直を撫定させた。拜嵗部の酋長・和索哩は城をもって降った。11月、遼の都統蕭嗄哩・副都統蕭撻不也が歩騎十万を将いて鴨子河北に会したため、太祖は自ら将いてこれを撃った。まだ鴨子河に至らぬ夜、太祖はまさに枕に就こうとしたところ、その首を扶えられるようで三度目に覚めて起き「神明が我を警めるのだ」と言い、鼓を鳴らし燧を挙げて行った。黎明に河に至ると、遼兵はちょうど陵道を壊しており、壮士十輩を選んでこれを撃走した。大軍は継いで進み岸に登り、甲士三千七百のうち至った者はわずか三分の一であった。しばらくして敵と珠赫店で遇い、たまたま大風が起こり塵埃が天を蔽い、風勢に乗じてこれを撃つと遼兵は潰え、沃稜濼まで逐い殺獲した。首虜及び車馬甲兵珍玩は勝げて計えられぬほどで、遍く官属将士に賜り宴犒すること日を彌した。遼人はかつて「女直の兵、満万すれば敵すべからず」と言っていたが、ここに至って初めて満万となった。斡魯は遼兵を敗り、その節度使托卜嘉・布呼らを斬った。布呼琿楚は賓州を攻めこれを抜き、烏舎・楚古爾蘇が来降した。遼将の実古爾が賓州で戦うと布呼琿楚がこれを敗り、鉄驪王の和勒博がその部をもって降った。烏達・布芬徹が復び実古爾・蕭伊蘇の軍を祥州の東で敗り、斡琿・集賽の両路が降った。烏楞古は遼軍を咸州の西で敗り統軍の錫埒を陣中で斬り、完顔羅索は咸州を克った。この月、烏竒邁・撒改・希卜蘇が官属諸将を率いて勧進し、新年元日に尊号を恭しく上りたいと願ったが太祖は許さなかった。阿里罕・普嘉努・宗翰らが「今、大功はすでに建った。もし号を称さなければ天下の心を繋ぐものが無い」と進言すると、太祖は「私はこれを思おう」と言った。
収國元年正月〜(改元まで)
- 収国元年正月壬申朔、群臣が尊号を奉上し、この日皇帝位に即いた。上(太祖)は「遼は鑌鉄をもって号としたのはその堅きを取ったからだが、鑌鉄は堅くとも終には変壊する。ただ金だけは変ぜず壊れない。金の色は白く完顔部は色を白を尚ぶ」と言い、国号を大金とし、収国と改元した。丙子、上は自ら黄龍府を攻めようと将い益州に進み臨むと州人は逃げて黄龍を保ったため、その余民を取って帰った。遼は都統耶律訛里朶・左副統蕭撻不也・右副統耶律章奴・都監蕭昱に騎二十万歩卒七万を率いさせ辺を戍らせ、羅索・尼楚赫を留めて黄龍を守らせた。上は兵を率いて達魯古城に趨き寧江州の西に次ったが、遼は僧家奴を遣わして和を議わせ、国書は上の名を斥し且つ属国とすることを求めた。庚子、師を進めると火光が正円で空から墜ち、上は「これは祥徴だ、天助である」と言い白水に酹して拝すと、将士はみな喜躍した。達魯古城に迫り、上が高く登り望むと遼兵は雲が連なり水を灌ぐような様であった。左右に「遼兵は心が貳っていて情は怯えている。法は多くとも畏るるに足りない」と言い、高阜に趨いて陣を布いた。宗雄が右翼を率い先馳して遼の左軍を撃つと左軍は却いた。左翼はその陣後に出て遼の右軍はみな力戦したが、羅索・尼楚赫はその中堅を衝き九度陥陣したがみな力戦して出た。宗翰が中軍でこれを助けようと請うたため、上は宗幹を遣わし疑兵とした。宗雄はすでに利を得て遼の右軍を撃つと遼兵はついに敗れ、勢いに乗じて追躡しその営に至った。日はすでに暮れこれを囲み、黎明に遼軍は囲みを潰えて出た。阿嚕岡まで追い遼の歩卒はことごとく殪し、その耕具数千を得て諸軍に給した。この役は遼人がもとより屯田して且つ戦い且つ守ろうとしたためその耕具を併せて獲たものである。3月、師は還った。3月辛未朔、寥晦城で獲た。4月、遼の耶律章奴が国書をもって来たが、上はその書辞が慢侮であることをもってその五人を留め、独り章奴を回して報書させた。書もまた同じであった。5月庚午朔、近郊で避暑した。甲戌、天を拝し柳を射た。故事に5月5日・7月15日・9月9日に天を拝し柳を射ることを歳例とした。6月己亥朔、遼の耶律章奴が復び国書をもって来たが、なお上の名を斥したため、上は復書もまた遼主の名を斥して報い、且つ挙国して来降することを諭した。7月戊辰、弟の烏竒邁を安班貝勒国相とし、撒改を古倫貝勒とし、希卜蘇を愛満貝勒とし、弟の舎音を古倫貝勒とした。甲戌、遼の使者が薩喇の書をもって来たが留めて遣らなかった。九百奚営が来降した。8月戊戌、上は自ら黄龍府を親征し混同江に次ったが舟が無く、上は一人に道を先に乗って赭白馬に徑ちに渡らせ「私の鞭が指す所を見て行け」と言った。諸軍がこれに随うと水は馬の腹に及んだ。後に舟人にその渡る所の深さを測らせたが底を得られなかった。熙宗の天眷2年(1139年)に黄龍府を済州とし利渉と号したのは、太祖の渡渉による故である。9月、黄龍府を克ち薩喇を還らせ、班師した。江に至って前のように徑ち渡った。丁丑、上は黄龍府より至った。己卯、黄龍が空中に見えた。癸巳、古倫貝勒撒改を古倫烏赫哩貝勒とし阿里罕を古倫英実貝勒とした。冬11月、遼主は黄龍府を取ったことを聞いて大いに懼れ、自ら七十万を将いて図們に至り、駙馬蕭特黙・林牙蕭撻凛らが騎五万歩四十万を将いて沃稜濼に至った。上は自ら将いてこれを禦いだ。12月己亥、約囉に次って諸将と議すると、みな「遼兵は号して七十万というがその鋒は当たり難い。我が軍は遠来し人馬は疲乏している。ここに駐まり深溝高塁で待つべきだ」と言い、これに従った。都古嚕訥・尼楚赫を遣わして達魯古を鎮させた。丁未、上は騎兵で自ら遼軍を候ったところ、督餉者を獲て遼主が章奴の叛によって西還したことを知った。すでに二日経っていた。この日、上は還って舒吉濼に至り、光が矛端に見えた。戊申、諸将が「今、遼主はすでに還った。怠りに乗じて追撃すべきだ」と言うと、上は「敵が来ても迎え戦わず、去ってから追うのを勇と言えようか」と言い、衆はみな悚愧して自ら効たいと願った。上は復び「まことに敵を追おうとするなら、齎を約して往け。饋を事とするな。もし敵を破ればどうして求めても得られぬことがあろうか」と言うと、衆はみな奮躍し、遼主を呼岱巴岡で追及した。この役は兵はただ二万であった。上は「彼は衆く我は寡ない。兵は分けられない。その中軍を視ると最も堅い。遼主は必ずそこにいる。その中軍を敗れば志を得られよう」と言い、右翼にまず戦わせ、兵が数交した時、左翼が合してこれを攻めると遼兵は大いに潰え、我が師はこれに馳せ横に出てその中を突いた。遼師は敗績し、死者は相い属して百余里に及び、輿輦・㡩幄・兵械・軍資・他の宝物・馬牛を勝げて計えられぬほど獲た。この戦、舎音は矛を援いて数十人を殺し、阿爾本は囲まれ、紇石烈徳克徳は四穆昆の兵をもってこれを救い出し、完顔蒙克は数創を身に被りながら力戦して已まなかった。功はみな最と論ぜられた。蕭特黙らは営を焚いて遁走したため、遂に班師した。夾谷撒改は開州を取り、博勒和は徳里城を下し、薩里罕は降った。
収國二年(1116年)
- 正月戊子、詔して「遼兵を破って以来、四方より来降する者が多い。優恤を加えるべきだ。今より契丹・奚・漢・渤海・係遼籍女直・室韋・達魯噶・烏舎・鉄驪諸部の官民ですでに降った者、あるいは軍に俘獲され逃遁して還った者は罪としてはならない。その酋長にはなお官を与え、宜に従い居らせよ」とした。閏月、高永昌が東京に拠り托卜嘉を遣わして援けを求めさせた。高麗は使者を遣わして捷を賀し、且つ保州を求めたため、詔してこれを自取することを許した。2月己巳、詔して「近年は歳が凶であるため、庶民の食が艱しく多くは豪族に依附し奴隷となり、あるいは法を犯して償いを徴されても弁えられず身を折って奴となる者がいる。あるいは私に約を立て限をもって人に対して贖わせるが、期を過ぎればその奴となった者を並べて両人で一人を贖い良となすことを聴す。もし元約が一人で贖うものであればまたその約に従う」とした。4月己丑、斡魯を内外諸軍を統べさせ分徹・都古嚕訥と咸州路の都統烏楞古と会して高永昌を討たせると、華沙布らが害された。5月、斡魯らは永昌を敗り、托卜嘉が永昌を擒えて献じたためこれを軍中で戮した。東京の州県及び南路の係遼女直はみな降ったため、詔して遼の法を除き税賦を省き、明安穆昆を置き本朝の制の通りにし、斡魯を南路都統とした。徳特貝勒紇石烈額図琿は遼兵六万を昭蘇城で破った。9月己亥、上は近郊で猟をした。乙巳、南路都統斡魯が来て巴密特水に見えた。金牌十二を初めて製した。12月庚申朔、安班貝勒烏竒邁及び群臣が尊号を大聖皇帝と上り、明年を天輔元年と改めた。
天輔元年(1117年)
- 正月、開州が叛くと夾谷撒改らがこれを討平した。古倫温貝勒舎音は兵一万をもって泰州を取った。4月、遼の秦晋国王耶律撻曷が来て伐ったため、都古嚕訥・羅索・博勒和が兵二万を将いて咸州路都統烏楞古と会してこれを撃った。5月丁巳、詔して「寧江州を収めて以来、同姓で婚をなす者は杖して離せ」とした。7月戊申、完顔鄂倫に東京事を知らせた。8月癸亥、高麗が使者を遣わして保州を請うた。12月甲子、烏楞古らは耶律撻曷の兵を蒺藜山で敗り、顕州・乾・懿・豪・徽・成・川・恵等の州がみな降った。この月、宋は登州防禦使の馬政を遣わして国書をもって来た。その概略は「日の出づる地に実に聖人を生む。竊かに聞くに遼を征して屡々勁敵を破ったという。もし遼を克った後、五代の頃に契丹に入陥した漢地は下邑に畀われたい」というものであった。
天輔二年(1118年)
- 正月庚寅、遼の双州節度使の張崇が降り、索多を遣わして宋への報聘の書に「請う所の地は今まさに宋と夾攻して得た者にこれを与えよう」と答えた。2月癸丑朔、遼の使者耶律奴哥らが来て和を議し、貝勒都古嚕訥・羅索が来て見えると、上は遼主が近く中京にいるのに敢えて軽々しく来たことをもってこれを杖した。和勒博・双寛らが「咸州の都統烏楞古は遼主が中京にいることを知りながら進討せず、芻糧が豊足なのに実をもって聞かず、顕州を攻めた時に獲た生口財畜も多く自ら取っている」と言うと、3月癸未朔、闍格に代わって都統とさせその罪を鞫させ、烏楞古は坐して穆昆を降された。5月丙申、命じて呼图克昆に遼へ行かせた。8月甲戌、通・祺・双・遼等州の八百余戸が来帰したため、これを分けて諸部に置き膏腴の地を択んでこれを処した。9月戊申、上は「国書・詔令には文に善き者を選ぶべきだ。所在に博学雄才の士を訪求し敦遣して赴闕させよ」と詔した。10月癸未、龍化州で降った張応古・劉仲良を千戸とした。乙未、咸州都統司が漢人の李孝功と渤海の二哥が衆を率いて来降したと言上したため、各々その部をもって千戸とした。12月甲辰、貝勒珠卜を遣わして定遼地を高麗に諭させた。遼の懿州節度使の劉宏が戸三千と併せて遼の候人を執えて来降したため、千戸とした。川州の寇二万がすでに降ったが復び叛いたため、夾谷卓哩がこれを撃破した。
天輔三年(1119年)
- 正月甲寅、東京の人質五人が結衆して叛き、覚られてその首悪を誅し、余はみな杖百し、罪に連座した家属・資産の半分を没収した。3月、耶律奴哥が国書をもって来た。5月壬戌、詔して咸州路都統司に「兵興以前、哈斯罕輝法里と係遼籍・不係遼籍女直戸に犯罪して流竄した民があり、あるいは遼に逃げ入った者があった。もとはみな我が民だ。遠く異境にありこれを甚だ憫れむ。今すでに和議したので理索を行うべきだ。諸路千戸穆昆に明らかに諭して徧く詢訪させ、その官称・名氏・地里を具えて上れ」とした。6月辛卯、遼は太傅実訥埒らを遣わして冊璽を奉じて来たが、上は冊文の合わない数事を摘み出し復させた。索多が宋より還り、宋の使者馬政とその子・宏が聘に来たが、索多は宋の団練使を受けたため上は怒りこれを杖してこれを奪った。宋使が還ると復び貝勒色埒・赫嚕らを遣わし宋に行かせた。8月己丑、女直字を頒った。
天輔四年(1120年)
- 2月、色埒・赫嚕が宋より還った。宋の使者の趙良嗣・王暉が来て燕京・西京の地について議した。3月甲辰、上は群臣に「遼人はしばしば敗れ使者を遣わして和を求めているが、ただ虚辞を飾って師を緩めるための計にすぎない。まさに進討を議すべきだ。咸州路都統司に軍旅を治め器械を修め数を具えて聞かせよ」と言った。4月乙未、上は自ら遼を伐とうと将い、遼の使者・実訥埒、宋の使者・趙良嗣らを従行させた。5月甲辰、渾河の西に次った。宗雄をまず上京に趨かせ、降者の馬義を遣わして城中に詔を諭させた。壬子、上京に至り官民に詔して「遼主が道を失い上下が怨みを同じくしている。朕が兵を興してより過ぎる所の城邑で固を負い服さない者は攻め拔き、降る者は撫恤した。汝らは必ずこれを聞いたであろう。今、爾国和好の事は反覆して欺かれ、朕は天下の生霊が久しく塗炭に罹ることを欲しない。ついに決策して進討することとした。しばしば宗雄らに相い継いで招諭させたがなお聴従しない。今もし攻めればこの城は破れよう。弔伐の義を重んじ民を残いたくないので明詔を開示し禍福を諭す。よくこれを図られよ」と告げた。上京の人は禦備・儲蓄を恃んで固守の計とした。甲寅、進攻を命じ、上は自ら城下に督将士した。諸軍が鼓譟して進むと、旦から巳に至り、扎里羅が麾下で先登しその外城を克ち、留守の托卜嘉は城をもって降った。趙良嗣らは觴を奉じて寿とし、みな万歳を称した。この日、上京の官民を赦した。詔して遼の副統・伊都に諭させた。壬戌、沃赫河に次った。宗幹は群臣を率いて「地が遠く時は暑く、車馬は疲弊している。もし敵境に深入すれば糧餉は乏絶して後艱があろう」と諌めたため、上はこれに従い師を班した。命じて兵を分け慶州を攻めさせ、伊都は撻懶を遼河で襲い、完顔布達・烏塔らがこれを戦い却けた。完顔特庫はここで死んだ。7月癸卯、上は自ら遼を伐つより至った。9月、矩威水部の錫勒哈達らが貝勒綽哈・布古徳を殺して叛いた。10月戊辰朔、日食があった。戊寅、斡魯に呼嚕古・烏春の兵を分けて錫勒哈達を討たせた。11月、東京留守司が本京の官民の質子の増数と番代を乞うたが上は許さず「諸質子はすでにみな田廬を受けている。もし復び番代すれば往来動揺があろう。並びに旧のままとせよ」と言った。12月、宋は復び馬政を使わして西京の地を請わせた。
天輔五年(1121年)
- 春正月、斡嚕は錫勒哈達を哈達拉山で敗り首悪四人を誅し、余は悉く撫定した。2月、昱と宗雄を遣わして諸路明安穆昆の民を分け、万戸を泰州に屯させ博勒和にこれを統べさせ、耕牛五十頭を賜った。4月乙丑朔、宗翰が伐遼を請い、諸路に軍事を予め戒めることを詔した。5月、遼の都統耶律伊都らが咸州に詣でて降った。6月癸巳、伊都とその将吏が来て見えた。丙申、千戸庫爾逹が擅に部人を富勒琿に任じたことに坐して杖百とし、その官を罷した。庚子、詔して安班貝勒烏竒邁を国政に貳させ、温貝勒舎音を烏赫哩貝勒とし、普嘉努を温貝勒とし、宗翰を伊拉齊貝勒とした。秋7月庚辰、咸州都統司に「伊都が来てより灼かに遼国の事宜を見た。すでに親征を議決した。その軍を治めて師期を俟て」と詔した。ほどなく連雨で親征は罷められ、温貝勒昱を都統とし伊拉齊貝勒宗翰にこれを副けて師を帥いて西した。11月辛丑、烏赫哩貝勒杲を内外諸軍都統とし、昱・宗翰・宗幹・宗望・宗磐らにこれを副けた。甲辰、詔して「遼の政は綱ならず人神ともに棄てている。今、中外を一統しようとし汝に大軍を率いて討伐させる。爾は兵事を慎重にし善謀を択び用い、賞罰を必ず行い、糧餉を必ず継ぎ、降服の者を擾さず、俘掠を縦にせず、可を見て進み師期を淹すことなかれ。事に権によることがあれば申禀を須たない」と言った。戊申、詔して「もし中京を克てば所得の礼楽儀仗図書文籍は並びにまず津発して闕に赴かせよ」と言った。
天輔六年(1122年)
- 正月癸酉、都統杲が高・恩・回紇の三城を克った。乙亥、中京を取り遂に沢州を下した。2月己亥、宗翰らは遼の奚王・回離保を北安州で敗り、奚部の西節度使額哩埒がその本部をもって降った。壬寅、都統杲が使者を遣わして捷を奏し且つ獲た貨宝を献じたため、詔して「汝らは兵を外に提げて克く任じた所に副い、城邑を攻め下し人民を撫安した。朕は甚だこれを嘉する。言う所の、将士を分遣して山前の諸部を招降するよう続いて報が来れば計してすでに撫定を続けよ。山後については未だ往くべきでない、即ち営田牧馬して秋成を俟って大挙を図るべきで、更に熟議し可を見て行い、もし兵を益さんとするならば数を具して上れ。一戦の勝を恃んでみだりに弛慢することはあってはならない。新たに降附した者はよく撫存し、宣諭して将士に朕の意を知らせよ」と言った。宗翰は北安に駐まり希尹らに略地させ、遼の護衛・耶律実訥埒を獲て遼主が鴛鴦濼で猟をしていること、その子の晋王が賢く人望があったため悪んでこれを殺したこと、これにより衆心はますます離れたこと、また西北・西南両路の兵馬もみな羸弱であることを知り、諾延温都らを遣わして都統杲に報じ進兵して襲わせた。3月、都統杲は青嶺より出て宗翰は瓢嶺より出て遼主を鴛鴦濼に追ったが、遼主は西京に奔り、宗翰は復び白水濼まで追ったが及ばずその貨宝を獲た。己巳、西京に至り壬申、西京は降った。希尹は遼主を伊蘇部に追ったが及ばず、乙亥、西京は復び叛いた。この月、遼の秦晋国王耶律撻曷が燕に即位した。4月辛卯、復び西京を取った。壬辰、完顔烏済・高慶裔を遣わし宋に行かせた。戊戌、都統杲は西京より白水濼に趨き、温貝勒昱は皮室部を徳里川で襲ったが敵に敗られ、還って糺合の兵と合し黄水の北まで追い大いにこれを破った。耶律坦は西南の諸部を招徠し、西は夏に至り、その招討使耶律仏徳が降った。金粛・西平の両郡の漢軍四千余人が叛去したため、耶律坦らはこれを襲取した。撻懶・羅索は天徳・雲内・寧辺・東勝等州を招降し、阿蘇を獲て還った。この時、山西の城邑諸部は降ったといえども人心は未だ固まらず、遼主は陰山を保ち耶律余睹は燕京にいた。都統杲は宗望に入奏させ上に軍に臨むよう請うた。5月辛酉、宗望が来て捷を奏し百官が入賀すると宴を賜り歓を歎いた。先に遼の枢密使徳哷台・節度使和尚・伊勒希・額哩頁らを獲て都統杲は阿林にこれを闕に送らせたが、徳哷台は道で亡げ、阿林は坐して誅された。耶律余睹は使者を遣わして罷兵を請うた。戊寅、楊勉を遣わして書をもって余睹を諭しこれに降ることを説かせると、瑪克実がその子の済爾噶済を遣わして方物を貢いだ。6月戊子朔、上は自ら遼を親征し上京より発した。安班貝勒烏竒邁に監国を命じた。辛亥、上京の官民に詔して「朕は天に順い伐を弔い、三京はすでに定まった。ただ遼主を未だ獲ていないので兵をやむことができない。今、親征して上京の路を由って進もうとするが、恐らくは新たに撫定した民を驚疑させ業を失わせるだろう」と諭した。すでに登穆魯より出て、先に降って後に叛き険阻に逃入した者は詔して罪をことごとく免ずるが、なお命に拒む者は孥戮して赦さないとした。この月、耶律余睹は卒した。斡魯・羅索は夏人を野谷で敗った。7月甲子、諸将に「遠迎して軍務を廃してはならぬ」と詔した。乙丑、上京の漢人の毛八十が二千余戸を率いて降ったため、これを領させた。丙寅、額恃埒を招いて降る者が衆かったため、八千戸を領させ呼遜にこれを副けさせた。壬午、希尹が阿疎を見て杖してこれを釈した。8月乙丑、鴛鴦濼に次り都統杲は官属を率いて来て見えた。癸巳、上は遼主を大魚濼に追い、昱・宗望が遼主を石輦鐸で追及して戦いこれを敗ると、遼主は遁れた。己亥、居延の北に次った。辛丑、中京将の完顔琿楚は契丹・奚・漢の六万を高州で敗り、貝勒瑪奇はここで死んだ。達勒達穆爾部が降った。昱・宗望は遼主を諤勒哲図に追ったが及ばなかった。9月庚申、草濼に次った。撻懶は中京部族の先に叛いた者及び招撫した沿海郡県の節度使耶律慎思が諸部を率いて内地に入るのを平らげた。乙丑、六部の奚に「汝らはすでに降りながら復び叛き衆心を扇動して誘っている。罪は赦し難い。ただ帰附の日が浅いことをもって、恐らくは綏懐の道が未だ孚っていないのだろう。復び招諭し、もし速やかに降れるならばその罪を釈し官はみな旧のままにしよう」と詔すると、帰化州は降った。戊辰、帰化州に次った。甲戌、宗雄が薨じた。丁丑、奉聖州が降った。10月丙戌朔、奉聖州に次って「朕はしばしば将臣に安輯懐附を勅し優しく侵ぐことがないようにさせてきた。しかし愚民は無知でなお多く山林に逃匿している。兵を加えることはひどく忍びない。今その逃散人民は罪の軽重を咎めず、みな矜免しよう。よく衆を率いて帰附できる者には世官を授け、あるいは奴婢がその主より先に降れば釈して良となす。これを布告して朕の意を諭せ」と詔した。蔚州が降った。庚寅、伊都らが蔚州の降臣・翟昭彦・徐興・田慶を遣わして来て見えると、昭彦・慶をみな刺史とし、興を圍練使とした。詔して「山西一方を招いても服さぬので、まさに師を帥いて往こうとしていたため先に山西諸部を安撫した。汝らはすでに懐服したので撫存を加える。官民は帰附以前の罪の軽重を咎めず、係官の逋負もみな釈免する。諸官はそれぞれこれを遷叙せよ」と告げた。丁酉、蔚州の翟昭彦・田慶が知州事の蕭観寧らを殺して叛いたが、丙午に復び降った。11月、燕京の官民に詔して王師が至れば降る者はその罪を赦し官を復すと諭した。12月、上は自ら燕京を伐ち、宗望が兵七千を率いてまずこれに向かい、都古嚕訥は得勝口より出て、尼楚赫は居庸関より出て、羅索を左翼、博勒和を右翼として居庸関を取った。丁亥、媯州に次った。戊子、居庸関に次った。庚寅、遼の統軍都監・高陸らが款を送りに来た。上は燕京に至り南門より入り、尼楚赫・羅索に城上に陣させ、そのまま城南に次った。遼の知枢密院の左企弓・虞仲文・枢密使の曹勇義・副使の張彦忠・参知政事の康公弼・僉書の劉彦宗が表を奉じて降った。辛卯、遼の百官が軍門に詣で叩頭して罪を請うたため、詔してことごとくこれを釈した。壬辰、上は得勝殿に御し群臣が賀を称した。甲午、左企弓らに燕京諸州県の撫定を命じた。西京の官吏に「先に師が燕都に至って皆すでに撫定したのに、ただ蕭妃と官属数人だけが逃げ去った。すでに兵を発して追襲させた。あるいはその路に至れば執えて来るべきだ」と詔した。黄龍府が叛いたため宗輔がこれを討平した。
天輔七年(1123年)
- 正月丁巳、遼の奚王和勒博が僭して帝を称した。甲子、遼の平州節度使・時立愛が降ったため、平州を曲赦する詔を出した。また安班貝勒に「近ごろ昂を遣わして諸部の民を嶺東に徙したが、昂は悖戻に騒動を煩優してますます怨叛を多くした。その命に違い衆を失ったことは重典に当たる。もし疑うところあれば禁錮してこれを待て」と詔した。庚午、中京都統鄂倫に「卿が人民を撫定しよく各々その業に安んじさせていると聞き朕は甚だこれを嘉する。しかし和勒博は徒を聚めて命に逆らっている。汝はよく計画し蔓延させぬようにせよ」と詔した。壬申、和勒博を招諭するよう詔した。癸酉、時立愛の言をもって諸部を招撫した。己卯、宋の使者が来て燕京・西京の地を議した。庚辰、宜・錦・乾・顕・成・川・豪・懿等の州がみな降った。甲申、詔して「諸州部族の帰附は日が浅く、民心はいまだ寧らかでない。今、農事は将に興ろうとしている。分諭して典兵の官に軍士が動優して人民を煩わし農業を廃すことのないようにさせよ」と言った。2月乙酉朔、薩巴に興中府を詔諭させこれを降らせた。遼の来州節度使の田顕・隰州刺史の杜師回・遷州刺史の高永福・潤州刺史の張成がみな降った。壬辰、安班貝勒に「郡県は今みな撫定した。もし逃散して未だ降らぬ者があればすでにその罪を釈しているのだから、更にこれを招諭せよ。前後に起遷した戸民は郷を去って未だ久しくない。どうして懐土の心が無かろうか。所在の有司に深く存恤を加えさせ、みだりに騒動が無いようにせよ。衣食が足りない者は官がこれを賑貸せよ」と詔した。癸巳、「先ごろ兵事のためしばらく諸路の関津の往来を絶っていたが、今、天下は一家となった。もしなお禁じたままなら民を便らせるゆえんではない。今より顕・咸・東京等路の往来を聴して便に従わせよ。俘虜された者・鬻身の者はみな自ら贖い良となることを許す。馳駅で布告させよ」と詔した。興中・宜州が復び叛いた。宋の使者・趙良嗣が来て歳幣を加え燕税に代えることを請い、疆を画すことを議し、遣使して正旦・生辰を賀すること、㩁塲を置いて交易すること、また西京等の事を計議した。癸卯、尼楚赫・道拉に宋に行かせた。乙巳、都統杲に「新附の民に材能ある者はこれを録用せよ」と詔した。戊申、平州の官に宋の使者と燕京六州の地を分割することを詔した。癸丑、大赦した。この月、平州を南京と改め張覚を留守とした。3月甲寅朔、昻を誅そうとしたが希卜蘇の諫めにより杖七十とし太州に拘した。戊午、都統杲らが「耶律余睹・伊都・烏舎・道拉らが叛を謀っている、早くこれを図るべきだ」と言うと、上は伊都を召しゆったりと「朕が天下を得たのはみな我が君臣が心を同じくし徳を同じくして大功を成したからだ。もとより汝らの力ではない。今、汝らが叛を謀っていると聞くが、もし本当ならば、必ず鞍馬甲胄器械の類はことごとく汝に付そう。朕は食言しない。もし復び我に擒えられれば死を免れる望みはない。事に留まり朕に事えて異志を懐かないなら、我は汝を疑わない」と言った。伊都は戦慄して答えられなかった。道拉を杖七十として並びに釈した。宋の使者・盧益・趙良嗣・馬宏が国書をもって来た。4月丁亥、斡魯・宗望に遼主を陰山に襲わせた。壬辰、宋に復書した。師が初めて燕に入った際、遼兵が復び奉聖州を犯し、林牙・撻実は龍門の東二十五里に壁を築いたが、都統斡魯はこれを聞き卓哩・羅索・馬和尚らに兵を率いてこれを討たせ、撻実を生獲しその衆を悉く降した。癸巳、詔して「今より軍事はもし中覆で滞留するようなら、この路の事務は都統司に申し、他はみな枢密院で決せよ」と言った。契丹の糺哩が党を聚めて興中府で乱をなしたため、これを擒えたが、糺哩は自殺した。実古納・博勒和に長勝軍及び燕京の豪族・工匠を松亭関から内地に徙させることを命じた。己亥、儒州に次った。斡魯・宗望らは遼の権六院司・喀勒扎を白水濼で襲いこれを獲た。その宗属の秦王・許王ら十五人が降った。遼主が輜重を青塚に留め兵万人をもって応州に往こうとしていると聞き、卓哩・布達・宗望・羅索・尼楚赫らを遣わしてこれを追襲させ、宗望が遼主を追及して決戦し大いにこれを敗り、その弟の趙王・実訥埒及び伝国璽を獲た。5月甲寅、南京留守の張覚が城に拠って叛いた。丙寅、野狐嶺に次った。己巳、拉林濼に次った。斡魯らは趙王実訥埒・林牙撻実・駙馬儒努らを献じ、併せて獲た国璽を上った。宗雋は俘えた遼主の子の秦王・許王・女の額頁らを連れて来て見えた。奚路都統達蘭は蘇庫・卓琳托紐の所部十三巌を攻めこれをみな平らげ、また奚の馬和尚に薩必達嚕噶及び五院司の諸部を攻めさせ、その節度使の伊里を執え、和勒博はその下の者に殺された。辛巳、南京の官民を詔諭した。6月壬午朔、鴛鴦濼に次った。この日、撻懶は張覚を営州で敗った。丙申、上は不予となり上京に還ろうとし、伊拉齊貝勒宗翰を都統とし、温貝勒昱・徳特貝勒斡魯にこれを副け、兵を雲中に駐めて辺に備えさせた。己酉、諤都山に次り驛で安班貝勒烏竒邁を召した。7月辛酉、牛山に次り宗翰は軍中に還った。8月辛巳朔、日食があった。乙未、渾河の北に次り、安班貝勒烏竒邁は宗室百官を率いて謁えた。戊申、上は布図濼西行宮で崩じた。年五十六。9月癸丑、梓宮は上京に至った。乙卯、宮城西南の寧神殿に葬られた。丙辰、安班貝勒が皇帝位に即いた。天会3年(1125年)3月、尊諡を武元皇帝と上り廟号を太祖とし、西京に原廟を立てた。天会13年(1135年)2月辛酉、和陵に改葬し、開天啓祚睿徳神功の碑を燕京城南のかつて駐蹕した地に立てた。皇統4年(1144年)に和陵を睿陵と改め、5年10月、応乾興運昭徳定功睿神荘孝仁明大聖武元皇帝と増諡した。貞元3年(1155年)11月、大房山に改葬し、なお睿陵と号した。
史論
- 賛にいう。太祖は英謨叡略にして豁達大度、人を知り善く任じ、人は喜んで用いられた。世祖は密かに遼を取る志があり、それゆえ兄弟相い授けて康宗に及び、ついに太祖に及んだ。臨終に太祖を穆宗に属したのは、その素志がこのようであったからだろう。初めて東京を定めるとすぐに遼の法を除き租税を省き本国の制度を用いた。遼主が播越すると宋は歳幣を納めて幽薊武朔等の州を宋に与え南京を平州に置いたが、宋人は結局燕代を守ることができず、ついに遼主は獲られ宋主は執えられた。功成るのは天会年間だが、その規摹運為は実にここより始まった。金の天下を有すること百十九年、太祖は数年の間に算に遺策なく兵に留行なく大業を底定し子孫にこれを伝えた。嗚呼、雄なるかな。