出自と即位
- 後主、諱は禅、字は公嗣。先主の太子で甘夫人の子。即位時十七歳。
建興元年(223年)
- 夏五月、後主即位。皇后呉氏を皇太后とし大赦、建興と改元(魏の黄初四年、呉の黄武二年に当たる)。張飛の娘を皇后とする。丞相諸葛亮を武郷侯、李厳を都郷侯とし、趙雲・費観・王連・向寵・魏延・呉懿らに爵位を与えた。南中諸郡が叛乱するも、亮は大喪明けのため出兵せず、鄧芝を呉に遣わし和議を結ばせた(呉王孫権との問答で「呉蜀が結べば天下を兼併できる」と説いた)。
建興二年(224年)
- 丞相亮が開府し益州牧を兼ね、政務全般を統括。信賞必罰を徹底し、庶事に精通したため民は畏れつつも愛慕した。蔣琬・李邵・馬勲・宗預・秦宓・五梁・杜微・費禕・董允・郭攸之ら人材を登用。呉の使者張温との応対で秦宓が機知に富む問答(天に頭・耳・足・姓はあるかという禅問答)を披露し温を敬服させた。
建興三年(225年)
- 春、廖立が朝廷を誹謗した罪で汶山に左遷。三月、亮が南征し、南中は平定され資に富んだ。冬、亮は孟達を蜀への内応に誘おうとしたが果たせず、費禕が侍郎として仕える。
建興四年(226年)
- 李厳が江州の永安都護に。魏の文帝が崩じ明帝が立つ。
建興五年(227年)
- 春、丞相亮が北伐の上表を行う(「出師の表」の趣旨を要約 — 危急存亡の秋であること、先帝の恩に報いる決意、賢臣を重んじるよう諫言)。二月、亮は漢中に出屯した。
建興六年(228年)
- 春、亮は斜谷道から郿を取ると見せかけ、趙雲・鄧芝を疑兵とし、自ら祁山を攻めた。天水・南安・安定の三郡が魏から離反し呼応。しかし馬謖が街亭で張郃に敗れ、亮は撤退し馬謖を処刑(泣いて馬謖を斬る)、自ら三等の降格を申し出た。姜維を登用。冬、亮は再び出兵し陳倉を囲むも糧尽きて撤退、追撃した魏将王双を討った。
建興七年(229年)
- 春、陳式が武都・陰平を攻略し二郡を平定。後主は亮の功を称え丞相位に復した。夏、呉主孫権が皇帝を称し、蜀呉は天下分割の盟約を結んだ。
建興八年(230年)
- 秋、魏の三方面からの漢中侵攻に対し、李厳を漢中に呼び都護とした。魏延・呉懿が羌中で魏軍を大破。
建興九年(231年)
- 春、亮が再び祁山を包囲し木牛を用いて輸送。李平(李厳)の糧運不備により撤退させられ、その後平の虚偽報告が発覚し李平は民に落とされた。
建興十年~十一年(232–233年)
建興十二年(234年)
- 春、亮は流馬で武功・五丈原に出て司馬宣王(司馬懿)と対陣、屯田策を講じた。秋八月、亮は軍中で病没(五十四歳)、漢中定軍山に葬られ「忠武侯」と諡された。魏延と楊儀の不和が表面化し、儀の指揮で撤退中、魏延が反乱し馬岱に討たれた。蔣琬が丞相府の後継として国事を統べた。
建興十三年(235年)
- 蔣琬が大将軍・益州刺史となる。楊儀は不満を漏らし讒言され自殺に追い込まれた。呉との友好が保たれた(宗預の応対の逸話)。
建興十四年~延熙初年(236–238年)
- 武都氐王苻健の帰順、後主の巡幸などが記される。皇后張氏(敬哀皇后)が薨去。
延熙元年(238年)
- 皇后張氏(敬哀皇后の妹)を立后。蔣琬が漢中に出屯。
延熙二年~六年(239–243年)
- 蔣琬が大司馬となり、姜維が大司馬を補佐、涼州方面への進出を検討。馬忠が越巂を平定。費禕・馬忠らとの協議で、涼州刺史に姜維を任じる方針を定めた。
延熙七年(244年)
- 魏の曹爽・夏侯玄が蜀を攻めるも王平が興勢で防ぎ、費禕が援軍を率いて撃退。董允が「四相(諸葛亮・蔣琬・費禕・董允)」の一人として賞賛される治績を残す。
延熙九年~十五年(246–252年)
- 費禕が大将軍となり董允と共に国政を安定させる。この間、姜維がたびたび隴西方面に出兵するが大きな戦果は得られなかった。費禕は赦の濫発を戒め治世を保った。呉主孫権が薨去。
延熙十六年(253年)
- 春正月、大将軍費禕が魏の降人郭脩に暗殺された(諡は敬侯)。以後、宦官黄皓が権勢を増し始める。姜維が単独で軍事を主導するようになるが功績は伸び悩んだ。
延熙十七年~十九年(254–256年)
- 姜維がたびたび隴西へ出兵。狄道の戦いで魏の王経を大破するも(洮西の戦い)、続く上邽の戦いで胡済の失期により大敗し、姜維は自ら降格を求めた。
延熙二十年~景耀元年(257–258年)
- 諸葛誕の反乱に呼応し姜維が出兵するが大きな成果なし。景耀と改元。宦官黄皓が陳祗と結び権勢を強める。譙周が「仇国論」を著し姜維の頻繁な軍事行動を諫めた。
景耀元年~五年(258–262年)
- 姜維は漢中防衛策を「重関退守」から積極野戦へ転換したが効果は乏しかった。関羽・張飛・馬超・龎統・黄忠を追諡。趙雲も追諡。諸葛亮の子瞻が輔政に加わるが、黄皓の専横は止まらなかった。姜維は黄皓の排除を後主に進言するも容れられず、沓中に退いて自ら難を避けた。
景耀六年・炎興元年(263年)
- 魏の鍾会・鄧艾・諸葛緒らが五道から蜀を攻める。姜維は陽安関口・陰平橋頭の防備を求めるも黄皓の妨げで機を逸した。鍾会が漢中に迫り、蔣舒の裏切りで関を失う。姜維・廖化・張翼・董厥は剣閣で鍾会を防いだが、鄧艾が陰平から間道を進み、諸葛瞻は綿竹で戦死(子の諸葛尚も壮絶な最期)。後主は譙周の勧めに従い降伏を決定。北地王劉諶は妻子を殺し自害。鄧艾は成都に入り後主を厚遇したが、鍾会の反乱に姜維も加担、鍾会・姜維は乱の中で討たれた。
- 三月、後主は一族と共に洛陽へ遷り、安楽県公に封じられ、食邑万戸・絹万疋を賜った。譙周・郄正・樊建らも侯に封じられた。蜀は劉氏の下で五十年(正式に皇帝を称してから四十二年)続いた。
- 蜀郡太守王崇の評は、後主には諸葛亮という補佐はあったが、内に親しい輔弼、外に爪牙の将がなく、天下を治めるには至らなかったとし、鄧艾・鍾会の攻防の帰趨についても分析を加えている。
史論
- 譔曰く、諸葛亮は英霸の才を持ちながら、主君は中興の器ではなかった。小さな蜀をもって強大な魏に抗するのは、宋の襄公の覇業に似て困難であった。しかし亮の政治は民を理め、威武は外に振るい、蔣琬・費禕がその路線を継承したため、弱国ながら自らを保つことができた。姜維の才は亮に及ばず、その志を継いだが民を疲弊させ、ついに国は喪われたと評す。