華陽國志卷六 劉先主志 劉備

出自と生い立ち

  • 先主、諱は備、字は玄徳、涿郡涿県の人。漢の景帝の子、中山靖王劉勝の後裔。勝の子貞が元狩六年(BCE117年)涿県陸城亭侯に封じられ、この地に家を構えた。祖父の雄は孝廉に察挙され東郡范県の令となったが、父は早くに没した。先主は幼くして孤児となり、母は履を売り席を織って生計を立てた。家の東南の桑の木が車蓋のように茂り、人々は貴人が出ると噂した。先主は少年の頃、宗中の子らと木の下で遊び「私は必ずこの羽葆の車に乗る」と言い、叔父の子敬に「妄言するな、我が家を滅ぼす気か」と諫められた。十五歳で学問に出、同族の劉徳然・遼西の公孫瓚と共に盧植に師事した。徳然の父元起が先主にも学資を与え、瓚は先主と親しく交わった。先主は容貌魁偉(身長七尺五寸、垂れた手は膝に届く)で、喜怒を色に出さず、豪俠を好み人々に慕われた。中山の大商張世平・蘇双らが先主に資金を与え、これにより徒衆を得た。関羽(雲長)・張飛(益徳)が先主に従い、三人は兄弟のように起居を共にした。

群雄割拠の時代

  • 中平元年(184年)、黄巾討伐に功を挙げ安喜尉となったが、督郵を杖打ちして官を捨てた。大将軍何進の募集に応じ下密丞・高唐尉・令を歴任。公孫瓚が先主を別部司馬として推薦し、冀州牧袁紹と戦い戦功を挙げ平原相となった。北海相孔融が黄巾に囲まれた際、先主が太史慈の求めに応じ救援した。広陵太守陳登は先主を高く評価した。徐州牧陶謙が病篤の際、先主に州を託し、先主は当初固辞したが陳登・孔融の勧めで徐州牧を領した。
  • 建安元年(196年)、曹公が先主を鎮東将軍・宜城亭侯とした。呂布との戦いで妻子を失うも麋竺の援助で立て直し、布と和した。後に曹公に帰し豫州牧となり布を伐つが敗れ、妻子を再び奪われた。建安三年、曹公が布を捕らえ処刑した際、先主は「丁建陽・董太師の例を思い出せ」と曹公に進言し布の助命を退けた。曹公は先主を厚遇したが、程昱・郭嘉は先主の危険性を説き殺害を勧めるも曹公は許さなかった。
  • 献帝の舅、車騎将軍董承が衣帯の詔を受け曹公暗殺を謀り、先主も種輯・呉子蘭・王子服らと共謀した。曹公が「天下の英雄は君と操のみ」と語った「煮酒論英雄」の逸話が伝わる。先主は雷鳴に驚いた振りをして本心を隠した。先主は徐州刺史車冑を殺し曹公に叛き、関羽に下邳を守らせたが、董承らの謀は露見し誅された。
  • 建安五年(200年)、曹公が東征し先主は敗れ、妻子と関羽を失った。先主は袁紹の元へ逃れ、関羽は捕虜となったが厚遇された。関羽は白馬の戦いで顔良を斬るなど戦功を挙げ、曹公は漢寿亭侯に封じたが、関羽は先主のもとへ帰参した。曹公はその義を評価し追わせなかった。先主は袁紹の南進を助け劉表と結んだが、蔡陽との戦いで先主自ら陽らを討った。
  • 曹公の南征後、先主は劉表に身を寄せ新野に屯した。徐庶の紹介で諸葛亮(孔明)を三顧の礼で迎え、有名な「隆中対」(曹操とは争えず、孫権とは結び、荊益を跨いで天下三分を図るという戦略)を授かった。先主は「魚が水を得たようだ」と述べた。

荊州から益州へ

  • 建安十三年(208年)、劉表が没し子の琮が曹公に降伏、先主は樊城から南下し当陽の長坂で曹軍に追撃され妻子を失いかけたが、趙雲・張飛の奮闘で難を逃れた(張飛の長坂橋の逸話)。諸葛亮は孫権に救援を求め、周瑜・程普の水軍と共に赤壁で曹軍を大破した。先主は荊州南部四郡を平定し荊州牧を領した。孫権の妹を娶り、諸葛亮を軍師中郎将、関羽・張飛を要地の太守とした。
  • 孫権との同盟関係の中、蜀への進出を巡る駆け引きが続き、建安十九年(214年)先主は益州を平定した。将士に恩賞を与え、諸葛亮・法正・関羽・張飛らを重用し、劉璋旧臣も含め人材を適材適所に配した。法正は睚眦の恨みも厚遇の恩も必ず報復する性格で、諸葛亮はその功を評価しつつも制御できなかったと評した。孫夫人(孫権の妹)は勇猛な性格で先主も畏れたが、法正の勧めで帰した。
  • 建安二十年(215年)、孫権が荊州返還を求め、呂蒙が長沙・零陵・桂陽を奪った。曹公の漢中侵攻を受け、先主は孫権と和睦し荊州を分割、漢中救援に向かったが張魯は既に降伏していた。張飛が漢中の要地で張郃を大破した。二十二年、先主は成都に還り、法正の献策で漢中攻略を決断、二十三年、楊洪の進言(「漢中は蜀の喉咽、家門の禍」)により兵を発した。二十四年(219年)、先主は夏侯淵・張郃を破って漢中を平定した。

漢中王即位から崩御まで

  • 群臣は先主を漢中王に推戴、許靖を太傅、法正を尚書令とし、関羽・張飛・馬超・黄忠らに将軍号を授けた。関羽は黄忠と同列に並ぶことを不満としたが、費詩の説得で受諾した。関羽は樊城で曹仁を包囲し「刮骨療毒」の逸話(毒矢の傷を酒を飲みながら平然と治療させた話)を残したが、孫権の裏切りにより荊州を失い、呂蒙・徐晃に敗れて殺された。
  • 建安二十五年(220年)春、曹操が没し曹丕が即位、漢の献帝が禅譲したとの誤報が蜀に伝わり、先主は献帝の死を悼み孝愍皇帝と追諡した。多くの臣下が瑞祥・図讖を根拠に即位を勧め、章武元年(221年)夏四月、先主は皇帝に即位し(許靖を司徒、諸葛亮を丞相とする等の人事)、呉氏を皇后、劉禅を皇太子とした。
  • 関羽の仇討ちのため東征を計画するが、張飛が部下に暗殺される不幸が続いた(張飛は君子には礼を尽くすが小人には冷淡で、それが仇となった)。秦宓の諫めも聞かず、章武二年、呉軍と対峙し夷陵で大敗(馮習・張南の戦死、黄権の魏への投降、程畿・傅彤の壮絶な戦死)した。先主は「これは天命だ」と嘆き白帝城(永安)に退いた。
  • 章武三年(223年)春、先主は病篤となり、丞相諸葛亮を永安に呼び「君の才は曹丕に十倍する、必ず国を安んじられる。もし嗣子が輔けるに足らなければ、君自ら取るがよい」と遺言した。亮は涙を流し忠誠を誓った。夏四月、先主は永安宮で崩御。時に六十三歳。諡は昭烈皇帝、恵陵に葬られた。

史論

  • 譔曰く、漢末の大乱で董卓・呂布・二袁(袁紹・袁術)・韓遂・馬騰・張楊・劉表らが群雄割拠する中、先主は微弱な勢力から興り、荊州・益州を得て天下三分を成し遂げた。これは英才・命世の人でなければ成し得ないことである。曹氏が漢に代わることを義士は非としたが、先主が寄死託孤の際に諸葛亮に二心なく仕えたことは、君臣の至公、古今の盛軌であると評す。