序
- 先王が史官を立てて経紀を記す由縁は、人倫を明らかにし懲勧を示すためである。公孫述と劉焉・劉璋二牧の興廃存亡は正史(漢書・国志)に詳しいが、州部の記録として体系立てて記すため、この篇を設けたと述べる。
公孫述
- 漢十二世の孝平皇帝は在位短く、国統は三たび絶えた。孝元后の兄の子で新都侯の王莽は簒位して天子を称し、郡守を「卒正」と改め、蜀郡を「導江」と改めた。中散大夫の茂陵出身、公孫述(字子陽)は導江卒正として臨卭を治めた。劉辟が広漢で挙兵し、更始帝劉聖公が南陽におり、蜀もこれに応じようとしたが、宗成・垣副・王岑らの乱に対し述は吏民を率いて防戦し、成都に威を張った。更始帝が王莽を誅し関中に都したが、赤眉に敗れた。
- 建武元年(25年)、光武帝が河北で即位。述は夢のお告げ(「公子系、後に八厶子系、十二を期とす」)を得、四月に龍が現れた瑞祥により皇帝を称し、国号を大成、元号を龍興とした。李熊を大司徒、任満を大司空、弟の恢を太尉とし百官を備え、十層の赤楼を築いた。当時、世祖(光武帝)は河北平定に忙しく、荊邯・延岑らが述に帰した。述は鉄銭を鋳造し銅銭を廃したため経済が混乱し、童謡「黄牛白腹、五銖当復」が流行した(漢が復興することを暗示)。主簿の李隆はしばしば述に帰順を諫めたが聞き入れられなかった。天水の隗囂も陇を拠点とし述と結んだが、述が図緯を引いて中国に檄を発すると、世祖は「当塗高(帝位を継ぐ者)とは君のことではない」と反駁した。荊邯の進言により述は出兵したが、天下平定はならなかった。
- 建武七年(31年)囂が漢に背き述に降ると厚く遇した。十年、世祖は呉漢・鄧禹に囂を討たせ隴右を平定。述はこれを憎み、秦時の空倉を「白帝倉」と偽り、米が湧出したと宣伝したが虚偽と露見した。十一年、世祖は岑彭を荊門から遣わし、来歙・馬援を使者として述に降伏を勧めたが、述は「古来降った天子があろうか」と拒み、諫めた解文卿・鄭文伯を幽閉した末に死なせた。彭は荊門関・沔関を破り彭亡に至ったが述の刺客に暗殺され、来歙も武都で刺殺された。世祖は呉漢・劉尚・臧宮を再派遣し、述は妹婿の延牙に防がせたが漢軍に大敗し、成都は包囲された。建武十二年(36年)、漢軍と述軍の激戦の末、述は漢の兵士に頭を刺され落馬し、間もなく死亡した。呉漢は入城後、公孫氏一族と延牙ら将帥二十余人を誅し、放兵掠奪させ多くの民を害した。
- 漢は隠逸を捜し忠義を旌表し、述に仕えながら忠諫した常少・李隆、節義に殉じた王皓・王嘉・李業、絆馬死戦した犍為の朱遵、隠士を貫いた費貽・任永・君業・馮信らを顕彰した。建武十八年(42年)、蜀郡の史歆が呉漢の掠奪を怨み反乱を起こしたが呉漢が鎮圧、世祖は過度な誅殺を漢に叱責した。建武から中平まで約二百年、この地は西南の貨物と人材の宝庫となった。
劉焉・劉璋
- 漢二十二世の孝霊皇帝の代、政治が乱れる中、太常の劉焉(字君郎)は「刺史・太守の売官が民の離反を招く」と建議し、自ら益州牧を求めた。侍中の董扶は「京都は乱れ、益州の分野に天子の気がある」と焉を誘い、太倉令趙韙らも従った。中平元年(184年)、涼州の黄巾賊馬相・趙祗らが綿竹で蜂起し刺史郄儉を殺し三郡を破ったが、州従事賈龍が討伐し州を鎮めた。焉は綿竹に治所を移し、南陽・三輔の避難民(東州士)を厚遇し勢力とした。張魯を漢中に遣わし北道を断ち、巴郡太守王咸・李権ら大姓十余人を誅して威を立てた。
- 献帝初平二年(191年)、任岐・賈龍が焉を攻めたが東州人の助力で鎮圧された。焉は驕り天子の車服を僭用し、長子範・仲子誕・季子璋は献帝に従い長安にいたが、叔子瑁のみ焉の傍らにあった。興平元年(194年)、焉は成都に治を移し、二子を失った悲しみと天災に病み背中に疽を発して没した。趙韙・王商らは仁厚な璋を推し、天子は璋を益州牧とした。
- 璋(字季玉)は懦弱で決断力に欠け、張魯が驕り漢中で叛くと、璋は魯の母弟を殺し、龎羲に討伐を命じたが果たせず、羲を巴郡太守とした。羲と璋の関係は悪化し、趙韙が建安五年(200年)挙兵したが翌年敗れた。璋は程郁父子の忠義譚(漢昌令畿の忠節)を経て畿を江陽太守とした。建安十年(205年)、璋は曹公(曹操)に使者を送り振威将軍に加封された。十二年、別駕張粛を遣わし曹公の掾属となる。十三年、弟の張松を遣わすが軽んじられ、劉璋の益州は劉先主(劉備)との接近を深めた。張松は法正・孟達を先主に仕えさせ、璋への離間を進めた。
- 建安十六年(211年)、璋は曹公の張魯討伐を恐れ、松の勧めで法正を先主のもとへ遣わし迎え入れることとした。黄権・王累らは強く諫めたが聞き入れられず、先主は諸葛亮・関羽・張飛らを荊州に残し軍を率いて益州入りした。璋は先主を厚遇し、涪城で会見(龎統の「伐人の国を楽しむは不仁」との諫めに先主が「武王の伐紂も前歌後儛、不仁にあらず」と応じた逸話)。璋は先主を行大司馬・司隷校尉、先主は璋を行鎮西大将軍に推挙し合った。先主は張魯討伐の名目で益州の兵権を得て葭萌に駐屯した。
- 建安十七年(212年)、曹公が呉を征すと孫権は先主に援軍を求め、先主は璋に増兵を求めたが半分しか与えられず、張松の裏切りが兄張粛の密告で露見し、璋は松を殺し先主との関係が決裂した。楊懐・高沛ら璋の名将を先主が誅殺し、龎統の「中計」(成都急襲)を用いて涪城を落とした。建安十八年(213年)、璋の将劉璝・冷苞・張任・鄧賢・呉懿らが敗れ、呉懿は先主に降った。鄭度の堅壁清野策を璋は用いず、法正の見立て通り自滅していった。李厳・費観も先主に降り、雒城を包囲した。
- 建安十九年(214年)、関羽・諸葛亮・張飛・趙雲らが荊州から入り巴東・巴郡を平定(厳顔の「断頭将軍」の逸話が有名)。夏、先主は雒城を落とし、馬超の投降もあり成都は震撼、璋は「父子二十余年、恩徳を民に施せず、三年の戦で民が犠牲になったのは我が故」と述べ、簡雍の説得を受けて降伏した。先主は璋の振威将軍の印綬・財物を返し南郡公安に移した。孫権が荊州を取ると璋は益州刺史とされ、先主東征の後に呉で没した。
史論
- 譔曰く、公孫述は導江の資に頼り王莽の虐政に乗じ巴蜀に跨って天を欺いたが、自ら滅亡を招いた者である。しかし妖夢が終期を告げ数に極まりがあれば、身を奉じて帰順すれば免れることもできたはずで、愚を矜り非を遂げたその頑迷さを惜しむ。劉焉は英傑の器にあらず僥倖を図り、劉璋も人雄の才になく乱世に土地を奪われたのは不幸ではなく必然である。昔、斉侯が晋魯の使者を嗤って自ら困難を招き、魏君が公叔の侍者を賎しんで割地の辱めを受けた故事のように、才を量り遠きを慮ることこそ君子の先見であると述べる。劉璋の曹公への侮り、法正・張松の二人の怨みが重なり、家国の覆滅と天下三分という結果を招いたことに、古人の戒めの重さを見ると評す。