南中の起源と漢代の開発
- 寧州は晋の泰始六年(270年)に置かれ、蜀の南中諸郡を統べる庲降都督の治所であった。南中は古来、夷越の地で、滇・濮・句町・夜郎・葉榆・桐師・嶲・唐侯など十を数える王国が、編髪左袵のまま家畜を追って遷徙し、統一されることはなかった。周の末、楚の威王が将軍荘蹻を遣わし沅水から且蘭を経て夜郎を伐たせ、牂柯に船を繋いだ。荘蹻は夜郎を降した後、秦が楚の黔中を奪ったため帰路を絶たれ、滇池に留まり王となった。荘蹻の子孫は且蘭の地に牂柯国を建て数百年続いたが、秦は蜀に通じる五尺道を開き官吏を置いた。
- 漢の興隆後もこの地は服さなかった。竹王伝説(遯水で女が竹から生まれた男児を養い、竹を姓としたという話)が伝わる。武帝は張騫を大夏に遣わし卭竹・蜀布を見て身毒国(今の永昌)との交易路を知った。番陽令唐蒙が南越で蒟醬を見て牂柯からの物と知り、夜郎の精兵を用いて南越を制する策を上書、帝は唐蒙を中郎将として夜郎侯を服させ、道を通じさせた。司馬相如も西戎卭笮の開郡を進言し、後に西南夷の反乱に際し諭書を発して民心を鎮めた。唐蒙は牂柯郡を置き竹王を斬ったが、夷濮の怨みにより竹王の子を列侯に立て「竹王三郎神」として祀られた。
- 昭帝始元元年(BCE86年)、益州の姑繒らが反乱し何度も鎮圧された(田広明の討伐で首五万を得た)。成帝の代、夜郎王興と鉤町王・漏卧侯の争いに際し陳立が牂柯太守として興を討ち威を南裔に震わせた。平帝末、文斉が益州太守として公孫述に服さず、光武帝はその義を称えた。明帝の代、鄭純が清廉により永昌郡の太守となった。章帝の代、王阜が益州太守として神馬・甘露・白烏の瑞祥を得た。安帝永初年間、羌の反乱に続き元初四年(117年)益州・永昌・越嶲の夷が大反乱し、益州刺史張喬が楊竦を遣わし平定した(三万余を殺し千五百人を捕虜にした)。霊帝熹平年間、蛮夷の反乱に対し李顒が益州太守として板楯軍で討伐した。景毅が益州太守として飢餓の民を安集した。
- 建安十九年(214年)、劉先主が蜀を平定し、鄧方を庲降都督とした。先主の没後、越嶲の高定元・益州の雍闓が叛き、雍闓は太守張裔を呉に送った。丞相諸葛亮は喪に服して兵を出さなかったが、牂柯郡丞朱褒が乱れると、亮は使者を送るも説得できず、雍闓は孟獲を通じ夷を煽動した。建興三年(225年)春、亮は自ら南征し(安上から水路で越嶲に入り、馬忠は牂柯、李恢は益州へ)、高定元は殺され雍闓も殺され孟獲が跡目を継いだ。亮は孟獲を捕えては七たび赦す「七縦七禽」を行い、遂に夷心を服させた。秋に四郡が平定され、益州は建寧と改称、雲南郡・興古郡が新設された。南中の勁卒(青羌)を蜀に移し「飛軍」と称し、夷の大姓を統制する五部都尉を置いた。爨習・朱提の孟琰・孟獲らが官職を得た。
- 李恢の後は張翼・馬忠(南人に慕われ祠が建てられた)・張表・閻宇・霍弋(交州刺史も兼務)と都督が継承された。晋代、泰始六年(270年)南中四郡を分けて寧州とし、太康三年(282年)李毅を南夷校尉とした。夷俗の詳細(昆・叟の種族、遑耶の風習、諸葛亮の夷図譜の記述)が続く。以後、李広漢・杜俊・雍約らの失政による毛詵・李叡らの反乱、李毅の娘秀の奮闘、王遜の統治、李釗の朱提太守就任、寧州の李雄軍との攻防などが詳述される。咸和八年(333年)、李雄の弟李寿が寧州を奪い、牂柯の謝恕のみが独立を保った。
郡県各説
- 牂柯郡:漢武帝元鼎二年(BCE115年)に開いた。多雨で鬼巫を好み蚕桑がない土地柄。公孫述の代に龍・傅・尹・董氏らが漢の光武帝に貢を捧げ「義郎」と称された。母歛の尹珍が学問を興し南域に学が始まった。万寿県・且蘭県・毋歛県などが記される。
- 平夷郡:晋元帝建興元年(313年)設置。平夷県・鄨県が属す。
- 夜郎郡:夜郎国の地。竹王三郎祠がある。
- 晋寧郡:もと益州で、蜀の建興三年(225年)に建寧と改称。滇池県・連然県(塩泉)などが属す。
- 建寧郡:もと庲降都督の屯所。味県が郡治で明月社がある。爨氏が同楽県の大姓。
- 平楽郡・朱提郡:朱提郡はもと犍為南部、文斉の稲田開発の功績で祠がある。朱・魯・雷・興・仇・逓・高・李の諸氏が大姓。
- 南広郡:蜀の延熙年間、常竺が太守となる。道の険しさを詠う俗謡が伝わる。
- 永昌郡:古の哀牢国。沙壺の伝説(沉木に感じて十子を生み、九子は逃げ末子元隆が龍に舐められ王となった話)が詳述される。孝武帝が博南山を通じ、光武帝建武二十三年(47年)哀牢王扈栗が鹿茤を攻めるも天変により敗れ、後に漢に帰順し西部属国となった。明帝永平十二年(69年)鄭純が太守となり、以後呂凱・王伉らが名を残す。閩濮・鳩獠・僄越・躶濮などの多様な民族と物産(貊獣・大竹・桐華布など)が記される。
- 雲南郡・河陽郡・梁水郡・興古郡・西平郡:蜀の建興三年(225年)以降順次分置。
- 咸熙元年(264年)以降、呉の交趾郡吏呂興が魏に内附した経緯、晋の楊稷・毛炅らの奮戦と交趾の陥落(呉将陶璜による包囲戦、毛炅・董元らの壮絶な最期)が詳述される。
史論
- 譔曰く、南域は卭笮五夷の外、不毛の閩濮の郷にあり、九服の外にある。それでも土を開き郡県を列ね方州を建て、博南・蘭滄を越え西の果てまで漢の武徳を及ぼしたことは、まことに大業と言うべきである。ただし要荒の風俗は華夏と同じではなく、辺境を安んじ遠きを撫でるには人材の得失が肝要であり、馬(馬忠)・霍(霍弋)・王(王遜)・尹(尹奉)らの得失にそれが表れている。交趾は州部は異なるが南中に連なる事績のため、併せて記したと評す。