蜀国の起源と伝説の王統
- 蜀国の始まりは人皇の代に遡り、巴と同じ囿にあった。黄帝の子昌意が蜀山氏の女を娶り高陽(帝嚳)を生み、その支庶を蜀に封じ代々侯伯とした。夏殷周を経て武王の紂討伐にも蜀は従軍した。地は東は巴、南は越、北は秦に接し、西は峨嶓を奄い、天府の地と称され「華陽」と呼ばれた。『河図括地象』に「岷山の下は井絡と為す」とあり、璧玉・金銀・珠・銅鉄・鉛・錦繍・罽・氂・犀象などの富があった。
- 周が綱紀を失うと蜀は先んじて王を称した。蜀侯蚕叢は目が縦に裂けており初めて王を称し、死後は石棺石椁に葬られた(俗にこれを「縦目人冢」という)。次代は柏灌、次は魚鳧で、魚鳧王は湔山で狩猟中に仙道を得たと伝わる。後に杜宇という王が現れ、農を教え「杜主」と号し、朱提の梁氏の女利を娶り郫邑に都を移した。杜宇は帝を称し「望帝」と号したが、洪水の害に際し相の開明が玉塁山を決壊させて治水し、杜宇は堯舜の禅譲にならい位を開明に譲って西山に隠れた。その時ちょうど二月で子鵑(ホトトギス)が鳴いたため、蜀人は子鵑の声に杜主を偲んで悲しむという。
- 開明の位号は「叢帝」といい、盧帝・保子帝と続き、青衣を攻め獠僰を服させた。九世に至る開明帝が初めて宗廟を立て、五丁力士が大石を立てて墓標とした(今の石笋)。開明王は夢のお告げで成都に治を移した。周顕王の代、蜀王が褒漢の地を有し、秦の恵王と獵で遭遇した逸話(金の贈答が土に化した話、石牛に金を仕込んだ計略で蜀を誘い出す話)、五丁力士の武都の女神を巡る伝説(武担山の由来)、秦の五女を巡る五丁士の悲劇(五婦冢の由来)などが伝わる。
- 蜀王が弟の葭萌を漢中の苴侯に封じたが、苴侯が巴と誼を通じたため蜀王は苴侯を伐ち、苴侯は巴に逃れて秦に救援を求めた。秦の恵王は司馬錯・張儀の献策により蜀討伐を決断(「蜀を得れば楚も得られる」との論)。周慎王五年(BCE316年)秋、秦の張儀・司馬錯らが石牛道から蜀を伐ち、蜀王は葭萌で防戦したが武陽で敗死し、開明氏は王十二世で滅んだ。同年冬、司馬錯は苴・巴も取った。周赧王元年(BCE314年)、秦は王子通国を蜀侯に封じ、張若を蜀国守として秦の民一万家を移した。三年、巴蜀を分けて漢中郡を置いた。六年、陳荘が蜀侯通国を殺して反乱、秦は甘茂・張儀・司馬錯を遣わし陳荘を誅した。七年、王子惲を蜀侯に封じ、司馬錯は巴蜀の兵十万・大船・米六百万斛を率いて楚を伐ち商於の地を黔中郡とした。
- 恵王二十七年(BCE311年)、張儀・張若は成都に城を築いた(周囲十二里・高七丈)。郫城・臨卭城も築かれ、府舎・鹽鐵の市官を整備し、咸陽と同じ制度に倣った。赧王十四年(BCE301年)、蜀侯惲は秦の孝文王に祭祀の饋物を献じたが、後母の讒言で毒を盛られたと疑われ、司馬錯に賜剣され自裁した。十五年、その子綰が蜀侯となったが、後に惲の無実が判明し改葬された。三十年、綰も謀反の疑いで誅され、蜀は張若を守として、筰・江南の地を併せた。
- 周滅亡後、秦の孝文王は李冰を蜀守とした。冰は天文地理に通じ、岷山を「天彭門」と称して祭祀を行い、江に堋を築き、郫江・撿江を分流させ舟運を通した。灌漑により三郡は「陸海」と呼ばれる沃野となり、「水旱人に従う、饑饉を知らず」と称え「天府」と呼ばれた。石犀を作って水精を鎮め、沫水の激流を鑿平し、笮・汶井江も通した。漢の高祖は蕭何を通じ蜀漢の米を運ばせ楚を伐つ兵糧とした。高祖六年(BCE201年)広漢郡を分置。高后六年(BCE182年)僰道を城壁化し青衣を開いた。文帝末年、廬江の文翁が蜀守となり湔江口を穿ち繁の田千七百頃を灌漑、学校を興し儁士張叔ら十八人を博士のもとへ遣わして七経を学ばせ、蜀学は斉魯に比するまでになった。景帝はこれを嘉し天下の郡国に文学を立てさせた。武帝の代、元光四年(BCE131年)に蜀四部都尉、元鼎二年(BCE115年)に成都十八郭を立て、以後犍為・牂柯・益州・越嶲・汶山・沈黎の各郡が次々に分置された。
- 漢の興隆から哀平に至り、司馬相如・揚子雲・厳君平・王子淵・李仲元ら文化人が輩出し、益州刺史王襄は王褒に「中和頌」を作らせ孝宣帝に献じた。建武以後も趙志伯・張公宣融・董扶・楊厚ら人材が続き、孝悌・忠貞・淑媛の徳行者も多く輩出した。秦・始皇による豪俠の徙民や、卓王孫・程鄭らの富豪の記述も伝わる。
蜀郡と成都
- 蜀郡:州治。五県、漢代戸二十七万・晋代六万五千。李冰の築いた七橋(市橋・江橋・万里橋・夷里橋・笮橋・長昇橋・永平橋)が有名。錦江で織った錦は特に鮮やかで「錦里」の名の由来となった。第五倫・廉范(「廉叔度」の歌で有名)・趙瑶・高頤ら善政の太守が輩出した。
- 成都県:郡治、十二郷。馮顥・劉龎らの令の治績、蜀侯祠、柳・杜・張・趙・郭・楊氏らの大姓が記される。
- 郫県・繁県・江原県・臨卭県:臨卭には火井の記録が詳しく、卓王孫・卓文君・司馬相如の逸話も伝わる。広都県は鹽井・漁田の富、朱辰の徳政の逸話。
- 広漢郡:高帝六年設置。八県。趙護・第五伯魚以下、劉璋の治めた雒城で先主が龎統を失った経緯(劉先主が「統は殺身成仁ではないか」と怒った逸話)を記す。雒県・綿竹県・什邡県・新都県・五城県・郪県・広漢県・徳陽県(鄧芝が葬られた地)などの県ごとの記述がある。
- 犍為郡:孝武帝建元六年(BCE135年)設置。唐蒙の南夷道開拓、王喬・彭祖の祠、李厳の天社山開削などの記述。武陽県・南安県(峨眉山の記述)・僰道県(隗通の孝行譚、呉順の逸話)・牛鞞県・江陽郡(江陽県の富義塩井、漢安県の符先絡の貞節譚)などが続く。
- 汶山郡:もと蜀郡北部冉駹都尉。夷風俗の記述、越嶲の高定元の反乱と諸葛亮の南征、張嶷の活躍などが詳述される。卭都県・臺登県・会無県・定筰県などの県が記される。
史論
- 譔曰く、蜀の国は天文では井絡がその上に輝き、地理では岷嶓がその域を鎮め、五岳では華山がその陽に表れ、四瀆では汶江がその徼を出る。上聖の大禹はこの地に生まれ、黄帝はその女と婚姻を結び、彭祖はこの山に育ち、王喬はその岡から昇仙したという。天地開闢より漢に至り、国は富み民は殷賑を極め、蕃衍すること三州、土地の広さは万里に及ぶ。まことに乾坤の霊囿、先王の経緯した地であると評す。