序
- 古来、国の大小を問わず記事の史官が置かれ、成敗を明らかにして懲勧を示してきた。劉氏の蜀が滅び晋の代となって以後、族祖の武平府君(常騫)や漢嘉杜氏がそれぞれ「蜀後志」を著したが、条理を欠き詳細を欠いていた。常璩は蜀での艱難を経験した者として、これを整理し年号を明記し、明徳を彰し違乱を治めることを目指してこの篇を著したと述べる。
魏咸熙・晋泰始年間(264–274年)
- 蜀平定の翌年(魏咸熙元年、264年)、袁邵が益州刺史、牽弘が蜀郡・金城太守、楊欣が犍為太守となった。後主が東遷後、宗預・廖化・諸葛顕ら蜀の大臣三万家が東方・関中に移され二十年の田租が免除された。冬、梁州が新設され董厥・樊建が蜀慰労の使者となった。
- 晋泰始元年(265年)春、刺史袁邵の召還に際し常忌が撫恤の継続を訴え留任させた。冬十月、武帝即位。泰始二年、柳隠を西河太守、文立を済陰太守、常忌を河内県令とした。泰始四年、王富の反乱(自称「諸葛都護」、諸葛瞻の生存を騙る)が鎮圧された。泰始五年、文立の上表で蜀の旧臣の家系五百家が優遇された。泰始六年(270年)、南中四郡を分けて寧州とした。泰始七年、汶山の反乱が鎮圧された。泰始八年、三蜀に白毫のような奇異な毛が生える異象。
泰始十年(274年)
- 汶山の白馬胡が反乱、刺史皇甫晏が討伐に出たが、諫言(何旅の秋冬まで待つべしとの進言)を無視し出兵、不吉な兆候が重なる中、部下の張弘らに反乱され殺害された。楊倉・王紹らが力戦し殉じた。事後、広漢主簿李毅の進言で王濬が救援に赴き、皇甫晏の忠孝が明らかになり、濬が益州刺史となって反乱を平定した。
咸寧年間(275–280年)
- 咸寧三年(277年)、刺史王濬が邪教(陳瑞の道術信仰)を弾圧し、淫祀を廃して松柏を舟材に用いた。何攀の建策により造船・兵力動員を効率化。咸寧四年、漢中の襲祚の反乱を鎮圧。咸寧五年、龍驤将軍・仮節・監梁益二州軍事の詔を受け、伐呉の準備を進めた。
太康元年(280年)
- 春三月、呉平定。王濬・何攀・李毅らに恩賞。淮南の胡羆が益州刺史となる。太康三年、益梁州を分置し西夷府を設置。太康五年、寧州を廃し益州に併合、南夷校尉を置いた。太康八年、成都王頴が益州の一部を王国とした。
元康年間(291–299年)
- 元康六年(296年)、梁益州を分割し栗凱を梁州刺史、趙廞を益州刺史とした。関中の氐・馬蘭羌の反乱に対応。元康八年、廞の代に六郡の流民(李特・李庠・閻式ら数万家)が飢饉のため漢川へ流入、これを巡る混乱が拡大した。汶山の胡人の反乱も起こる。元康九年、江夏太守陳総が代わって胡を退けた。
趙廞の乱と李特の台頭
- 永康元年(300年)、趙廞が大長秋に召還される命令を受けたが、六郡の流民(李特ら)を頼みに独自の勢力を築いていたため、これに応じず耿滕が益州刺史となった。廞は李庠らを使い刺史滕を大破し殺害、自ら大将軍益州牧を称して独立、多くの官職を私党に与えた。李庠は東羌の良将として軍を整えたが、廞に警戒され誅殺され、その一族も殺された。李特・李流兄弟は憤り離反、廞は永寧元年(301年)春、綿竹での戦いに敗れ、成都を放棄し逃亡中に殺害された。
- 梁州刺史羅尚が益州刺史として着任。李特・李流は当初尚に協力する姿勢を見せたが、辛冉ら魏晋の官吏との軋轢が深まり、流民の帰郷を巡る対立(羅尚側の閻式らとの交渉、期限の引き延ばし)が緊張を高めた。羅尚は関を設け流民を封じ込めようとし、李特らは反発、大安元年(302年)以降、両者は各地で交戦した。李特は広漢を落とし梁統・竇融の故事を引いて自らを正当化する上表を行った。
- 永寧・太安年間、羅尚と李特の攻防が続き、李特の子李蕩・李雄らが活躍。李特は永安元年(304年)二月頃、羅尚配下の内応(任叡の計略)により大敗し斬られた。兄の李輔らも戦死。李流が大将軍・大都督を継いだが、荊州軍(宋岱・孫阜)の来援で苦境に陥り、李含の勧めで降伏を検討したが、雄・驤の反対で翻意、六郡人士を結集して逆転、宋岱の病没もあり形勢は再び李氏側に傾いた。李流は同年に病死し、李雄が大将軍を継いだ。
- 李雄は郫城を落とし、朴泰の策略により羅尚軍を大破、成都を陥落させた。羅尚は牛鞞水を経て退却した。梁州刺史許雄は討伐不振で檻車徴還となった。以後、羅尚が江陽・巴郡方面に拠って抵抗を続けたが劣勢が続き、永嘉年間には巴西・漢中方面でも李雄勢力(李離・李雲・李璜・李鳳ら)と晋側(張光・杜孟治ら)の攻防が続いた。梁州は次第に李氏の支配下に入っていった。
その他の異象と評
- 蜀では太康から太安にかけて度々怪異(女児の異形、馬の角、無毛の驢馬など)が現れ、童謡(「郫城堅、益底穿」等)も李特の乱を予言したものとされる。譙周の予言(「巴が没して三十年後に異人が蜀に入る」)が的中したとの説も記される。
史論
- 譔曰く、先王が万国を統治する道は、親尊賢能を兼ね、宗盟に任じることで内は王室を藩屏し外は叛乱を防ぐことにあった。漢代には王尊・王褒のような名臣、第五倫・蔡茂のような三司登用者がいた。しかし大同(西晋統一)以後、西土の張曠(混乱)を憂える識者は多かったが、賢徳の樹立が果たされず、険を夷と見誤り、垣を欠いたまま防がず、戎狄に乗じられて三州が覆った。『詩経』の「四国に正しき無く、その良を用いず」との言葉がまさに当てはまると評す。