華陽國志卷二 漢中志

漢中郡の由来と沿革

  • 漢中郡はもと附庸国で、周の赧王二年(BCE313年)、秦の恵文王が郡を置き、川の名にちなんで名付けた。漢水には二つの源流があり、東源は武都の氐道漾山から出て漾水と呼ばれ(『禹貢』の「漾を流して漢と為す」に当たる)、西源は隴西の嶓冢山から出て白水と合し葭萌を経て漢に入り沔と呼ばれる。『詩経』に「滔滔たる江漢、南国の紀」「惟れ天に漢有り」とあるのがこれである。分野は巴蜀と同じ。東は南郡、南は広漢、西は隴西・陰平、北は秦川に接し、土地は肥沃で賦貢は三蜀に並ぶ。戦国期は楚が強盛でこの地を領したが、後に秦の争地となった。漢の高帝は秦に勝ち子嬰を得たが、項羽に漢王として巴蜀の三十一県を与えられ不満だった。丞相蕭何は「王たることも死より優る。しかも『天漢』という称は美しい。屈するところ一人の下にあれば伸びるところ万乗の上にある、それが湯武である。漢中を治め賢人を集め巴蜀を治め三秦を平らげれば天下も図れる」と諭し、帝は従い南鄭に都した。項籍が義帝を弑した後、高帝は東伐し、蕭何は漢中を守り兵糧を支え、三秦平定後は関中を鎮めて天下平定を助けた。田叔が漢中太守となり、後に魯の相となったが、帝業発祥の地ゆえ藩王は封じられなかった。以後、鄧公が孝景帝の朝で忠言を陳べ、張騫は険を冒して孝武帝のために辺境を開き、大宛の馬・南海の象・珍宝を市朝にもたらし、博望侯に封じられた。谷口の鄭子真は隠士として名高く、楊王孫も至人の風格を備えた。
  • 建武以後、多くの儒者がこの地から輩出し、司徒李郃、太傅李固、陳伯台・李季子ら文人、州牧郡守も多く出て西州の盛況を極めた。莽の時代は公孫述が蜀から漢中を跨いで秦隴の径を塞ぎ、しばしば害を為した。
  • 安帝永初二年(108年)、陰平・武都の羌が漢中に侵入し太守董炳を殺した。永初四年、羌が再来し太守鄭厪が出撃したが主簿段崇・陳禅の諫めを聞かず敗死、崇と門下史王宗ら力戦し殉じた。天子は巴郡の陳禅を漢中太守に拝し、羌の首謀を誅して赦免策で人心を安んじた。程信ら二十五人は復讎の誓いを立て、元和二年(85年)板楯蛮の助けを得て羌を大破、天子は永初五年に信・崇らの家に穀を賜った。
  • 漢末、沛国の張陵が蜀の鶴鳴山で道を学び道書を作り、自ら「太清玄元」と称して民を惑わした。陵の死後、子の衡が業を継ぎ、衡の死後は子の魯が継いだ。魯は字を公祺といい、鬼道をもって益州牧劉焉に信任された。魯の母は容色に優れ焉の家に出入りした。初平年間(190–193年)、魯は督義司馬として漢中の谷道を断ち、義舎を置き義米義肉を施す寛恵の政を行い、五斗米道と称された。扶風の蘇固が漢中太守だった頃、魯の党の張脩が固を攻め殺したが、その部下陳調が復讐して脩を討った。魯はこうして漢中を有し、劉焉は「米賊断道」と朝廷に上書した。劉璋の代、魯は驕り高ぶり、建安五年(200年)璋が魯の母弟を殺すと、魯は巴夷の杜濩・朴胡・袁約らと叛いた。魯は漢朝に対し倨傲だったが、乱世で征伐できず、中郎将・漢寧太守に任じられた。璋は龎羲・李思らを討伐に遣わすも成らず、巴夷が日々叛いたため羲を巴西太守とし、楊懐・高沛を関頭に置いて劉先主に魯討伐を求めたが、先主はかえって璋を襲った。建安二十年(215年)、魏の武帝が西征すると魯は巴中に逃れたが、功曹閻圃の勧めで魏に降ることを選び、「曹公の奴となるとも劉備の上客とはならぬ」と述べて帰順した。魏武帝は魯を鎮南将軍・襄平侯に封じ、五子もみな列侯とした。
  • このとき先主は東方の江安に下っており、巴漢はみな服した。魏武帝は巴夷の王杜濩・朴胡・袁約を三巴太守とし、夏侯淵・張郃・趙顒らに漢中を守らせ、民を関隴に移した。建安二十四年(219年)、先主が漢中を攻め定軍山に至り、淵・郃・顒が来戦したが先主に大破され、黄忠が淵・顒を斬った。魏武帝が再び西征すると先主は「孟徳が来ても何もできまい、我は必ず漢川を得る」と述べ、漢中王を称し、成都に帰る際に重臣を漢中の守りに置くこととし、衆はみな張飛を推したが、先主は魏延を鎮遠将軍・漢中太守に任じた。先主が「曹操が天下を挙げて来たら」と問うと、延は「大王のために防ぐ」「偏将十万なら呑み込む」と答え、その言に人々は感嘆した。
  • 蜀の平定後、梁州の治は沔陽に置かれた。太康年間(280–289年)、晋武帝の子である漢王司馬迪が封を受け、漢国と改称し六県となった。

漢中郡の各県

  • 南鄭県:郡治。周の貞王十六年(BCE453年)秦の厲公が城を築いた。旱山から来る池水が沔に注ぐ。李・程・趙の諸氏が大姓。
  • 沔陽県:州治。鉄官があり、清濁二源の水がある。蜀丞相諸葛亮は定軍山に葬られた。
  • 褒中県:孝昭帝元鳳六年(BCE75年)に設置。都尉治だった。扶木山があり唐公房祠がある。
  • 成固県:蜀は沔陽を漢城、成固を楽城と呼んだ。
  • 蒲池県・西鄉県
  • 魏興郡:もと漢中の西城県。哀帝・平帝の頃、県民の[某]光が交州刺史となり、王莽簒位に不服従を貫いた。後漢の光武帝に忠節を認められ大将軍朝候祭酒・鹽水侯に封じられた。漢末、建安二十四年(219年)劉先主が孟達に房陵・上庸を攻めさせ、劉封と共に上庸を得た。申耽の弟儀を西城太守としたが、耽・儀は魏に降った。黄初二年(221年)、儀は魏興太守・鄖郷侯となった。蜀平定後は西城に治所を置き、六県、戸数一万。
  • 上庸郡:もと庸国の地、秦・楚・巴が滅ぼした。秦は蜀に、後に漢中に属した。漢末に上庸郡となる。建安二十四年、孟達・劉封が攻め、太守申耽は降伏した。黄初中、魏に降り、新城に併合されたが、孟達の誅殺後に再び郡となった。
  • 新城郡:もと漢中の房陵県。秦始皇帝が呂不韋の舎人一万家をここに移した。漢代も罪ある宗族大臣を多く移した。漢末は房陵郡。建安二十四年、孟達が房陵を征し太守蒯祺を殺し、三郡を平定したが劉封と不和になり、関侯(関羽)が樊城を囲んで援けを求めた際、達と封は援けず、侯は呉に破られ殺された。達は先主に責められることを恐れ魏に降り、封を破って房陵を得た。魏文帝は達を新城太守とした。丞相諸葛亮が達を蜀への内応に誘い、書を送ったが、司馬宣王(司馬懿)が達の裏切りを察知し急襲、達は宣王に誅滅された。宣王はこの地を三郡に分け、新城は四県、戸二万。
  • 房陵県・沵郷県・昌魏県・綬陽県。この三郡(西城・上庸・新城)は漢中から分かれ、漢の東にあるため蜀漢では「東三郡」と称された。蜀時は魏に属し荊州の管轄だったが、晋の元康六年(296年)梁州に復した。

梓潼郡・武都郡・陰平郡

  • 梓潼郡:もと広漢の属県。建安十八年(213年)、劉先主が葭萌から劉璋を攻めた際、中郎将霍峻が葭萌城を守り、張魯の将楊帛の誘いを拒み、劉璋の将向存らの大軍をも寡兵で退けた。二十二年(217年)、広漢を分けて梓潼郡を置き、峻を太守とした。六県、戸一万。金銀丹漆薬蜜を産する。
  • 梓潼県は郡治。五婦山があり蜀の五丁力士の伝説の地。涪県は成都より三百五十里、大将軍蔣琬が葬られた。晋寿県はもと葭萌城で漢寿と改名、金銀鉱があり大将軍費禕が葬られた。白水県には関尉がある。広漢県・徳陽県には剣閣道がある。
  • 武都郡:もと広漢西部都尉治。元鼎六年(BCE111年)に郡となる。九県、戸一万。氐傁・羌戎が多く名馬・牛羊・漆蜜を産する。建安二十三年(218年)、先主の将軍雷同・呉蘭が魏の曹洪に破られた。建興七年(229年)、丞相亮の遣わした陳戒が武都・陰平二郡を平定し益州に復した。氐族の楊茂搜の一族が晋・李雄・劉曜・石勒・石虎・張駿に臣従しつつ勢力を保った経緯を詳述。下辨県が郡治。
  • 陰平郡:もと広漢北部都尉。永平以後羌の反乱により郡となる。四県、戸一万。永初二年(108年)羌が反乱し、以後たびたび乱れた。建興七年、諸葛亮が陳戒に平定させた。永嘉末、太守王鑑の粗暴により民が離反し李雄に降り、氐羌は楊茂搜に占拠された。

史論

  • 譔曰く、漢水は光り輝き天に照り、地に画されて梁州となる。皇劉(漢の劉氏)の応運はこの地の長い祚に応じたものであり、蕭何の献策も理に適ったものであった。