華陽國志卷一 巴志

巴蜀の由来と梁州の建置

  • 大昔、堯の代に洪水が天を衝くほど溢れたが、鯀はこれを治められず、禹が後を継いで長江・黄河を導き、多くの河川を疏通させて天下を整えた。古の九囿にならって九州を置き、上は参・伐の星に応じ、下は華陽・黒水・江漢の地を梁州とした。その土は青黎、田は下上の等級、賦は下中の等級で、璆鉄・銀・鏤・砮・磬・熊羆・狐狸・織皮などを貢いだ。夏・殷・周を経て九州の牧伯はそれぞれの職を務め、周の文王は西方の伯として九国を治めた。武王が殷を討った後、徐州を併せ青州に、梁州を雍州に合わせたが、職方氏はなお梁州の地を掌り、土壌や宝利を弁別した。秦の帝業、漢の高祖の代に至り、雍州を涼州、梁州を益州と改めた。巴・漢・庸・蜀は益州に属した。魏の咸熙元年(264年)、蜀を平定した翌年、益州の巴漢七郡を分けて梁州を置き、漢中に治所を置いて耿黼を刺史とした。元康六年(296年)、広漢・益州の郡から雍州の武都・陰平、荊州の新城・上庸・魏興を割いて梁州に属させ、統べる郡は十一、県は五十八となった。
  • 『洛書』によれば、人皇が地皇の後を継いだ際、兄弟九人が九州を分治し、人皇は中州に居て八輔を制した。華陽の地、梁・岷の域はその一囿である巴蜀に当たる。分野は輿鬼・東井に当たる。上世の君主は未詳だが、五帝以来、黄帝・高陽の支庶が代々侯伯となった。禹が治水した際、巴蜀を梁州に属させた。禹は塗山の女を娶り、子の啓が生まれても顧みる暇なく治水に専念した。今の江州の塗山がそれで、禹王の廟の銘が今も残る。禹が会稽で諸侯を会したとき、玉帛を執った国は万国あり、巴蜀もそこに参じた。周の武王が紂を討った際、実際に巴蜀の軍勢を得たことが『尚書』に見える。巴の軍は勇猛で、歌舞をもって殷人の戈を倒させたため、世に「武王紂を伐つ、前歌後舞」と称される。武王は殷に勝った後、宗姫の一族を巴に封じ子爵とした。古代は遠国は大きくとも子爵までしか許されなかったため、呉・楚・巴はみな子と称した。
  • 巴の地は東は魚復、西は僰道、北は漢中、南は黔涪に至る。五穀・六畜・桑蚕・麻紵・魚塩・銅鉄・丹漆・茶蜜・霊亀・巨犀・山雉・白雉・黄潤の鮮やかな粉などを産し、みな貢納した。果実では茘枝・辛蒟、園には芳蒻・香茗・橙・葵があり、薬物には巴戟・天椒、竹木には桃支・霊寿があった。名山には塗籍・霊台・石書山などがある。民は質朴で義を好み、風俗は敦厚で古の遺風を残す。詩には父母を養う嘉穀・旨酒を詠う歌、祭祀を詠う歌、好古楽道を詠う歌があるが、失う所は重遅魯鈍で、機敏な弁舌の趣に乏しいことである。属する民には濮・賨・苴・共・奴・獽・夷・蜑などの諸種がある。
  • 周の中頃、巴は秦・楚・鄧と並ぶ地位にあったが、春秋魯桓公九年(BCE703年)、巴子は韓服を遣わし楚に鄧との友好を求めさせたが、鄧の南鄙がその幣を奪い、巴子は怒って鄧を伐ち破った。その後巴・楚の軍が申を伐ち、楚子は巴軍を恐れた。魯荘公十八年(BCE676年)、巴は楚を伐ち勝った。魯文公十六年(BCE611年)、巴は秦・楚と共に庸を滅ぼした。哀公十八年(BCE477年)、巴人は楚を伐ち鄾で敗れた。以後、楚が夏の盟主となり秦が西土を独占し、巴国は遠隔のため会盟に与ることが少なくなった。戦国期には楚と婚姻を結び、七国が王を称すると巴も王を称した。
  • 周の末世、巴国に内乱があり、将軍の巴蔓子は楚に援軍を求め、三城を割譲すると約した。楚王が巴を救い国が安んじた後、楚が城の割譲を求めると、蔓子は「楚の霊威によって禍難を鎮められた。誠に楚王に城を与えるべきだが、我が頭を持ち帰って詫びるほかない。城を得ることはできない」と述べ、自ら首を刎ねて楚の使者に授けた。楚王は嘆じて「我が臣に巴蔓子のごとき者を得られれば、城など何の用があろう」と、上卿の礼で頭を葬り、巴国もまた上卿の礼で遺体を葬った。
  • 周顕王の代、楚が衰弱し、秦の恵文王が巴・蜀と誼を通じた。蜀王の弟苴は密かに巴と親しく、巴・蜀は長らく戦争を続けた。周慎王五年(BCE316年)、蜀王が苴侯を伐ち、苴侯は巴に奔って助けを求め、巴は秦に救援を求めた。秦の恵文王は張儀・司馬錯を遣わし苴を救い、巴はついに蜀を伐ち滅ぼした。張儀は巴道の豊かさを貪り、巴を取って王を捕らえ、巴・蜀・漢中の三郡を置き、その地を分けて二県とし、江州に城を築いた。司馬錯は巴から涪水を経て楚の商於の地を取り黔中郡とした。秦の昭襄王の代、白虎が秦・蜀・巴・漢の害となり、秦王は重く募った。夷人の朐忍・廖仲薬・何射虎・秦精らが白竹の弩を高楼に作り、虎の頭を射て仕留めた。秦王はその功を讃え、賦役免除と盟約を刻石した。夷人の租税免除・十妻不算・傷害殺人の贖銭などを定め、これに従う板楯蛮(弜頭虎子)は白虎の仇を討つ復夷と呼ばれた。
  • 漢の高祖は秦を滅ぼし漢王となり、巴蜀を領した。閬中の范目は帝の天下平定を予見し、賨民の募集を進言、賨兵は秦平定に功があった。帝は范目を長安建章郷侯に封じ、後に閬中慈郷侯・渡沔県侯に改めた。世に「三秦を亡ぼしたのは范三侯である」と言う。閬中の渝水沿いの賨民は勁勇で、漢の前鋒として陣を陥れ、その舞を高祖が愛でて「これは武王が紂を伐った歌である」と称し、楽人に習わせた。これが今の巴渝舞である。天下平定後、高帝は巴を分けて広漢郡を置き、武帝はさらに割いて犍為郡を置いた。世に「巴を分け蜀を割いて犍広を成した」と言う。
  • その後、巴には忠貞の臣、民間には正しい歌謡が多く生まれた。巴郡の譙君黄は成帝・哀帝の代に諫議大夫として忠言を進め、王莽・公孫述に仕えず毒酒を賜っても笑って動じなかった逸話が伝わる。巴郡の陳紀山(陳禅)は司隷校尉として西域の献物の試験で公正を貫き、巴人の歌に詠われた。巴郡の厳王思(厳遵)は揚州刺史として民に愛され、遷任の際百姓が引き留め、没後は義金百万を子が受け取らず散じて食客に施した逸話がある。漢の安帝の代、巴郡太守が失政すると民が風刺の歌を作った。永初年間(107–113年)、羌の反乱に際し、馬妙祈の妻義・王元憒の妻姫・趙蔓君の妻華の三貞女が節を守り西漢水に身を投げて死んだ話が伝わる。永建年間(126–132年)には泰山の呉資が郡守として豊年をもたらし民が慕った。桓帝の代には河南の李盛が貪財の太守として刺された。漢末の政治の衰えに際し、混濁の世を嘆く詩も作られた。洛下閎・任文公・馮鴻卿・龎宣孟・文和・趙温柔・龔升侯・楊文義ら徳操ある人物も多く輩出した。
  • 安帝元初三年(116年)、涼州の羌が漢中に侵入し太守董炳を殺したが、王堂が巴郡太守として乱を治め、賢士を挙用したことが刺史張喬に称賛された。桓帝の代、但望が巴郡太守として民の疲弊を憐れんだ。文学掾の趙芬ら百余人が上表し、巴郡の広さ・遠さ、赴任の苦難、督郵の対応の遅さ等を訴え、賦役の重さを訴えた。永興二年(154年)三月、但望はさらに巴郡の境界・戸口・道里の詳細と、分郡(臨江郡・安漢郡)の提案を上疏したが朝議は許可しなかった。
  • 順帝・桓帝の代、板楯蛮がしばしば反乱を起こしたが、太守趙温の恩信により帰服した。光和二年(179年)、板楯は再び反乱し三蜀・漢中を苦しめたが、益州計曹の程包は「板楯は義民であり、これまでも羌の侵入を防いできた功がある」と弁じ、討伐ではなく懐柔を勧めた。後、太守李顒が板楯の力を借りて羌を平らげたが、板楯自身は重税と虐使に苦しみ叛乱を起こした。太守曹謙が詔をもって赦免すると乱は治まった。
  • 献帝初平元年(190年)、征東中郎将趙穎の建議で巴を二郡に分け、劉璋が墊江以上を巴郡(龎羲太守、安漢治)、江州から臨江までを永寧郡、朐忍から魚復までを固陵郡とした。建安六年(201年)、魚復の蹇機と璋が巴の名を争い、璋は永寧を巴郡、固陵を巴東、龎羲を巴西太守に改め、これを「三巴」と呼んだ。その後、涪陵の謝本の求めにより丹興・漢髪の二県を割いて涪陵郡とした。

巴の風土と各県

  • 巴子の都はもと江州にあり、後に墊江・平都、さらに閬中に治所を移した。先王陵墓の多くは枳にあり、市も江の亭北岸に立てられた(今の新市里)。郡東の枳には明月峡・広徳嶼があり、巴にも三峡がある。巴・楚がしばしば攻伐したため扞関・陽関・沔関が置かれた。漢代は江州に郡治があり、劉先主の初め費瓘が太守となり、後に李厳が大城を築き、蜀丞相諸葛亮の許しを得ず山を穿つ計画は取りやめたが、蒼龍門・白虎門などを造営した。延熙年間には鄧艾が陽関に治所を置いた。咸熙元年(264年)には四県のみとなり怡思和が太守となった。
  • 江州県:郡治。塗山に禹王祠・塗后祠があり、犍為の張君が仙道を得た廟の伝説がある。清水の粉が有名で「江州墮林粉」と称される。荔枝園があり、稲田・蒲蒻・藺席を産する。波・鉛・毋・謝・然・□・楊・白・上官・程の諸氏が大官を輩出した。
  • 枳県:郡東四百里、涪陵水の会う地で土地は痩せているが、章・常・連・黎・牟・楊の諸氏が郡の首位を占めた。
  • 臨江県:枳の東四百里、朐忍に接し塩官があり、豪門も塩井を持つ。厳・甘・文・楊・杜の諸氏が大姓。晋初、文立が実に常伯・納言として名を成し、楊宗は呉に仕え虎臣と称された。
  • 平都県:蜀の延熙年間に廃止。殷・呂・蔡の諸氏が大姓。
  • 墊江県:郡西北四百里、桑蚕・牛馬を産し、龔栄・龔揚・趙敏・淳于長寧・黎夏・杜らが大姓。
  • 楽城県:延熙十七年(254年)に廃止。
  • 常安県:同じく廃止。
  • 巴東郡:先主が益州に入って江関都尉を改置。建安二十一年(216年)、朐忍・魚復・羊渠・宜都・巫・北井の六県を合わせ固陵郡とし、後に巴東と改称。武陵の康立、輔匡が太守となった。呉の攻撃を撃退した羅献の活躍が伝わり、泰始年間(265–274年)には歩闡・唐咨の呉軍を破り西鄂侯に封じられた。晋の太康初、巫・北井を建平に還し、五県のみとなった。魚復県には公孫述が改称した白帝城があり、朐忍県には石城・霊寿木・塩井などがある。
  • 涪陵郡:巴の南鄙。険しい山水の地で獽・蜑の民が多い。蜀の丞相諸葛亮が勁卒三千を連弩士とし、後に大姓を蜀へ移住させ督将の助郡軍とした。晋初、弩士を馮翊蓮勺に移したが風俗は変わらなかった。丹興県は名丹を産し蜀時に廃止。漢平県は延熙十三年(250年)に設置。万寧県はもと永寧。漢髪県には塩井がある。
  • 巴西郡:東は巴郡、南は梓潼、北は涼・西城に接し、牛馬・桑蚕を産する。周羣父子・程公らの学者、馮車騎(馮緄)・范鎮南ら将相を輩出し、「巴に将あり、蜀に相あり」と称された。閬中県は郡治で、彭池・大澤・霊台があり三狐・五馬・蒲・趙・任・黄・厳の諸氏が大姓。南充国県は和帝の代に設置され塩井がある。安漢県は陳・范・閻・趙の諸氏が有名。宕渠郡は延熙年間に設置、故賨国の地で、馮緄・大鴻臚らを輩出した。宕渠県は鉄官があり、漢昌県は勾氏が大姓、宣漢県は今は廃止。

史論

  • 譔(常璩)曰く、巴国は遠く黄帝・炎帝の支族の封であり、周代には宗姫の親戚として春秋に列した。巴蔓子の忠烈、范目の果毅など、風俗は敦厚で名将を輩出した。これは江漢の霊気、山岳の精爽によるものだろう。李雄が宕渠の卒伍から興ったのも、この地の人材の力量によると評す。