間書魏の楊侃と明の趙臣、鎮安・帰順の宿怨を利用して郷間を用いた策
要約
- 魏で蕭宝寅が反乱すると、長孫稚がこれを討伐したが、賊の守りが固く進撃できなかった。
- 左丞の楊侃は、河東を包囲する薛修義らの兵の家族がもとの村に残っていることに着目し、官軍の接近を知れば兵が動揺して自ら潰れるはずと進言した。
- 長孫稚は子の彦と楊侃に騎兵を率いさせて河を渡らせ、降伏を申し出た村には烽火で呼応させ、呼応しない村を賊として討伐する策をとった。
- 実際には降伏していない村々まで争って烽火を挙げ、二晩で火は数百里に広がったため、包囲していた賊は味方の情勢が測れなくなって散り、修義・鳳賢は降伏した。長孫稚は潼関・河東を落とし、蕭宝寅は逃走した。
- 明代、田州の岑猛が反乱すると、都御史の姚鏌は岑猛の岳父である帰順の土官・岑璋が加担することを恐れ、都指揮の沈希儀に相談した。
- 沈希儀の部下・趙臣は、鎮安と帰順が代々の仇敵である関係を利用し、自ら鎮安への出兵の使者を装って岑璋に接近する策を提案し、実行した。
- 趙臣は岑璋に「岑猛に加担したとして鎮安の兵に襲われる」と偽って泣いて訴え、岑璋を動揺させて味方に引き込むことに成功した。
- 岑璋は内応の目印を用いて田州軍を欺き、沈希儀は伏兵で田州軍を大破、岑猛の子・邦彦は戦死した。
- 岑璋はさらに岑猛をだまして毒殺し、その首と印を軍門に届けたが、功を妬んだ諸将や姚鏌を陥れようとする者の讒言により、姚鏌は弾劾され沈希儀らの功も記録されず、岑璋も不満から道士となった。
- 按ずるに、功ある者が讒言に遭い、讒言した者が功を横取りするのは古今の嘆かわしい常であり、これゆえに志ある者は挫かれ、賊はいつまでも誅されずに残る。
現代語訳全文
『智嚢補』に言う、魏の応州刺史・蕭宝寅が反乱して馮翊を攻めたので、尚書僕射の長孫稚がこれを討伐した。左丞の楊侃は稚に言った、「賊の守りはすでに固い。北へ迂回して蒲阪から河を渡って西に向かい、その腹心の地に入るのが良い。そうすれば華州の包囲は戦わずして自ずと解け、長安も座して手に入れることができる」と。稚は言った、「今、薛修義が河東を包囲し、薛鳳賢が安邑を占拠している。兵を進めることができないが、どうするか」と。楊侃は言った、「河東の治所は蒲阪にある。修義は兵卒・士民を駆り立てて西に進み郡城を包囲しているが、その父母妻子は皆もとの村に残されている。ひとたび官軍が来たと聞けば、皆家族を気遣う心を持ち、必ず風を望んで自ら潰乱するだろう」と。稚はそこで自分の子の彦と楊侃に騎兵を率いさせ、恒農から北に渡って右錐璧に拠らせた。楊侃は声を放って言った、「ここに留まって歩兵を待つ」と言いつつ、民情の向背をうかがった。そして降伏を申し出た者たちにはそれぞれもとの村に帰らせ、味方の軍が三度烽火を挙げるのを待って、村の側でも烽火を挙げて呼応させた。呼応の烽火を挙げない者はすなわち賊党であるとして、進撃してこれを討ち、得た戦利品を兵士に賞として与えた。こうして村人たちは互いに告げ合い、実際には降伏していない者までも烽火を挙げるようになった。二晩の間に、火光は数百里にわたって広がった。城を囲んでいた賊は味方の情勢が測れなくなり、それぞれ散って帰って行った。修義もまた逃げ帰り、鳳賢とともに降伏を願い出た。稚は潼関を攻略し、そのまま河東に入った。宝寅はついに逃走した。
明の趙臣が岑璋を用いた話。『留青日劄』に言う、岑璋という者は、帰順州の土官である。智略に富み、士を養うことに長けていた。田州の岑猛はその婿であった。岑猛が法に背いたので、督撫が反乱の状を上奏し、詔により諸土官のうち岑猛を討ち取った者には官位一級を賜り、その領地の半分を分け与え、岑猛に加担する者は皆誅殺するとされた。都御史の姚鏌は兵を挙げようとしたが、岑璋が岑猛と結託するのではないかと恐れ、都指揮の沈希儀に相談した。沈希儀は部下の千戸である趙臣が岑璋と親しいことを知っていたので、趙臣を召して策を問うて言った、「かすかに聞くところでは、岑璋の娘は岑猛の寵を失い、岑璋は岑猛を大いに恨んでいるという。私は岑璋を使って岑猛を討ちたいが、どうか」と。趙臣が答えて言った、「岑璋は智略があるが疑い深い性格です。まっすぐに話しても必ず信じません。計略をもって誘い出すことはできますが、力ずくで働かせることは難しいでしょう」と。沈希儀は言った、「どのような計略が良いか」と。趙臣は言った、「鎮安と帰順とは代々の仇敵です。公が人を帰順に遣わせば鎮安は疑い、人を鎮安に遣わせば帰順が疑います。公がもし私を鎮安への出兵の使者として遣わせば、岑璋は必ず私を招いて事の次第を尋ねるでしょう。そこに付け入る隙が生まれます」と。沈希儀はその計略の通りに趙臣を遣わした。趙臣は道を遠回りして岑璋のもとを訪ね、座って嘆息した。岑璋がそのわけを問うたが、趙臣は語らなかった。翌日、岑璋は酒宴を設けて趙臣をもてなし、しきりに問いただした、「軍門は私を咎めようとしているのか。私は隣国の恨みを買って、いずれ追及されるのではないか」と。趙臣はひそかに涙を流した。岑璋もまた泣いて言った、「ああ、趙君よ、私は今日死ぬのなら死ぬまでだが、君はどうして私を苦しめるのか」と。趙臣は言った、「私と君とは口も心も一つにしてきた仲だ。差し迫った事があれば告げずにはいられない。今日、君が死ぬか、それとも私が死ぬかだ」と。岑璋は言った、「どういうことか」と。趙臣は言った、「軍門は詔を奉じて田州を討とうとしているが、君が娘婿である岑猛に加担していると見なし、鎮安の兵を差し向けて君を襲おうとしている。私が黙っていれば君は必ず死ぬ。私がこれを告げれば、君が急に手を打って事が露見すれば、私が必ず死ぬことになる。それゆえに泣いているのだ」と。岑璋は大いに驚き、しばらく息をついてから言った、「今日、趙君がいなければ、私は一族もろとも滅ぼされていただろう」と。そこで趙臣を無理に引き留めて役所の宿舎に病と称して留まらせ、急いで人を軍門に馳せ遣わし、岑猛の反乱の状を詳しく述べさせ、自分にも罪が及ぶことを恐れて自ら忠誠を尽くしたいと願い出た。沈希儀はこれを許した。そして姚鏌に報告し、姚鏌はここに至って専ら岑猛討伐に意を注ぐようになった。岑猛の子の邦彦は工堯の砦を守っていたが、岑璋はうわべは千人を遣わしてこれを助けると見せかけ、内応させようとし、皆、寸切れの布を味方の目印として着物の裾に付けさせた。そしてひそかに沈希儀にこれを告げた。当時、田州の兵は死力を尽くして砦を守り、誰も進んで前に出る者がなかった。沈希儀は単独で戦いを挑み、三度交戦した末、奇兵千余騎を率いて間道から砦の側面を回り込ませた。旗指物が閃くのを見て、帰順の兵が叫んだ、「天の軍が間道から入ってきたぞ」と。田州の兵は驚き潰乱し、沈希儀はこれに乗じて、首数千を斬った。邦彦は戦死した。岑猛は敗北を聞いて自ら首をくくろうとしたが、岑璋はこれを誘って帰順の地に逃れさせ、別館に迎え入れた。ところが別の将である胡堯元らは沈希儀の功を妬み、一万の兵をもって帰順を討とうとした。岑璋は先にこれを察知し、人を遣わして牛百頭と酒千樽を持たせ、三十里先で軍を出迎えさせた。そして使者に堯元に告げさせた、「先日、岑猛は敗れ、帰順を越えて交南の地に逃げようとしましたが、私岑璋がこれを迎え撃ったところ、岑猛は流れ矢を目に受けて南方に去り、行方は分かりません。急いで追及すれば異民族を糾合して事変を起こすことを恐れます。どうか五日間の猶予をいただければ、必ず捜し出してみせます」と。堯元はこれを許した。岑璋は帰って岑猛を欺いて言った、「天の軍は退きました。しかしこの事は朝廷に上奏しなければ明らかになりません」と。岑猛は言った、「そうだな」と。「では誰か上奏文を起草できる者はいないか」と尋ねた。岑璋はそこで人に岑猛のために上奏文の草稿を作らせ、岑猛を促して印を出させ、これを封じさせた。すでに岑猛の印のありかを知った岑璋は、酒宴を設けて岑猛を祝い、音楽を盛んに奏でさせた。酒宴が半ばになったところで、岑璋は毒酒を捧げて献じて言った、「天の軍があなたを探すこと甚だ急です。もはや庇いきれません」と。岑猛は大声で叫んだ、「老いぼれの奸計に落ちたか!」と。そして毒薬を飲んで死んだ。岑璋はその首と印を斬り取り、間道を馳せて軍門に届けた。そして別の囚人を斬り、その屍を岑猛の屍だと偽って諸軍の前に投げ与えた。諸軍はやかましく争ってこれを撃ち、十余人を殺してしまった。そして飆のように軍門に馳せ参じたときには、岑猛の首はすでに一日前に梟首されていた。諸将は大いに恨みを抱き、ついに岑璋の功を貶め毀損した。また布政某らはひそかに姚鏌を陥れようとし、「岑猛は実は死んでおらず、死んだのは道士の銭一真である」と言いふらした。御史の石金はついに姚鏌の官職を弾劾して剥奪し、沈希儀らの功もまた記録されなかった。岑璋は不満に思い、ついに道士の冠をかぶって道を学ぶ身となった。
按ずるに、成功した者が讒言に遭い、讒言をした者が功を居取りするのは、古今変わらぬ嘆かわしいことである。これゆえに志ある者は心を挫かれ、賊盗はいつまでも誅されずに残るのである。