間書李充嗣の反間――偽の火牌で寧王軍を動揺させる

要約

- 宸濠の敗北は王陽明の功とされるが、実際には巡撫李充嗣(梧山)の力による部分が大きい。

- 李充嗣は宸濠が護衛の兵を増やしたと聞き「虎に翼が生えたようなものだ、禍いが起ころうとしている」と警戒し、力を尽くして謀反の兆候を訴えたが朝廷は取り合わなかった。それでも武備を整え、衆人の中からただ一人指揮使揚鋭を選んで安慶の防備を託した。宸濠が九江を陥れると、みずから采石に駐屯して上流を塞ぎ、皖城に檄を飛ばし、揚鋭は出撃のたびに勝った。

- 決定的だったのは、朝廷十万の官軍が安慶に集結し江西の叛賊を討つとの偽の緊急文書(火牌)を流したことである。宸濠の軍はこれを見て動揺し、半数近くが逃散した。さらに旗を盛んに飾った水軍を安慶救援と称して進ませると城中は士気を上げ、揚鋭は挟撃してこれを大破した。宸濠は黄石磯から夜逃げし、李充嗣が追撃するうち、王陽明の軍と合流して鄱陽湖でついに捕らえられた。

- しかし論功では結局李充嗣の功は認められず、目撃者の胡潔が訴えても報われなかった。

- 按語は、火牌による離間も書状による反間と同じ理であり、変化に巧みな者の策だと評する。

現代語訳全文

李充嗣が宸濠に対して行った(反間)。

陳儒継『見聞録』にいう。宸濠の敗北は、王陽明の功に帰せられているが、実際には李梧山の力によるところが大きい。李は諱を充嗣といい、四川内江の人である。正徳十四年、南畿を巡撫していたとき、宸濠が護衛の兵を増やしたと聞いて嘆いていった。「虎に翼が生えたようなものだ。禍いがまさに起ころうとしている」と。そこで力を尽くして(宸濠の)謀反の兆候を訴えたが、朝廷の議論はこれを難じた(信じなかった)。公(李充嗣)はそこで武備を整え、衆人の中からただ一人指揮使の揚鋭を選んで揖礼し、これに委任していった。「皖城(安慶)の防備は、あなたに委ねる」と。十五年、賊兵は九江を陥れた。公はみずから兵を率いて采石に駐屯し、上流への道を塞いだ。皖城に檄を飛ばし、揚鋭は機に応じて敵に対応し、出撃するごとに勝利しないことはなかった。(李充嗣は)間諜による火牌(緊急文書)を発していった。「緊急の軍情のことにつき、欽差太監・総兵らの官が辺境の官軍十万余りを統率し、半分は南京に到着しようとしており、半分はまっすぐ安慶に趨き、あわせて両広の狼兵(少数民族の精兵)を調達している。湖広の土官も、即日水陸並び進み、皆安慶に会集する。期日を定めて江西の叛賊を進撃する。今この火牌を前路の官司に飛報し、一体となって心を同じくして防守せよ。糧草を予備し、(命令が下るのを)待って用に応じよ」云々と。宸濠の舟が李陽河に至ったとき、この火牌に出会い、これを見て驚愕した。これによって(宸濠の兵は)散亡する者が半ばを占めた。続いてまた水卒千人を発し、その旗幟を盛んに飾り立て、飛艦百余艘に乗せ、鼓を鳴らし喊声をあげて進ませた。安慶への応援であるとの声を挙げると、城中の者はこれを望み見て士気は百倍し、揚鋭はすぐに城門を開いて出撃し、水陸から挟み撃ちにしたので、賊はついに大潰した。この時、宸濠は黄石磯に陣を張っていたが、敗北を聞いて夜のうちに逃げ去った。公はみずから兵を率いてこれを追撃した。宸濠は鄱陽湖に逃げ込んだが、そこで王陽明が兵を率いて湖に至ったのに出会い、ついに捕らえられた。後に功を論じるにあたって、結局公には及ばなかった。胡御史(胡潔)はこの事の目撃者であり、特にこれを論じて列挙したが、(朝廷からは)報われることはなかった、と。

按ずるに、火牌によって反間を行ったのは、書状によるのと同じことである。これはまさに変化に巧みな者のすることである。