間書王守仁の反間――偽書と偽詔で寧王を惑わす
要約
- 明の王守仁(王陽明)は、寧王宸濠の重臣李士実・劉養正、および優人(俳優)に対して反間を用いた。
- 挙兵直後、守仁の兵はまだ集まらず、宸濠が急いで出撃することを恐れた守仁は、蜜蝋で封じた偽の密書を作って李士実らに贈り、「国のために尽くす至情は分かった、ただ宸濠を急いで出撃させてほしい」と記した。さらに宸濠の諜者をわざと捕らえて漏らすふりで釈放し、書の内容を伝えさせた。書を得た宸濠は疑心暗鬼になり、李士実らが帝位に即くことを勧めたためますます不信を深め、十余日援兵が来ないうちに欺かれたと悟った。
- 『智嚢補』にはさらに、身代わりを立てて濠の追撃をかわしたこと、偽の朝廷密旨を諸方に伝えて伏兵を配したこと、優人の懐に偽の文書を忍ばせて捕らえさせわざと放免し宸濠に真実と誤信させたこと、伍文定らに誘い出して包囲殲滅する策を授けたこと、宗室や脅されて従った者を赦す布告を出して城内の内応を防いだことなど、緻密な策謀が記される。これらにより衆力が一斉に挙がり、宸濠はついに捕らえられた。
- 按語は、李士実への策は岳飛の故智、優人への策は種世衡の故智に倣ったものだが、その変化は模倣と気づかせぬほど巧妙だと評する。
現代語訳全文
明の王守仁(王陽明)が李士実および優人(俳優)に対して行った(反間)。
『三大功臣伝』にいう。宸濠(寧王)が反した際、王守仁の兵はまだ集まっておらず、宸濠の兵が速やかに出撃することを憂えた。日々檄文を作り、諸郡県に檄して兵糧を用意させた。また蜜蝋で封じた書を作って李士実・劉養正に贈っていった。「密かなご意向を得て、国のために尽くされる至情をつぶさに知った。ただ(宸濠を)そそのかして早く出撃させてほしい。ひとたび省(南昌)を離れれば、大事は成るであろう」と。そしてわざと宸濠の諜者を捕らえ、斬ろうとする姿勢を示した。そして狡猾な監視役に命じて、あたかも宸濠と通じているかのように装わせ、(機密を)漏らして(諜者を)放免させた。宸濠は書を得て、心が定まらず躊躇した。そして李士実・劉養正と謀ったところ、二人は皆、急いで南京に趨いて帝位に即くことを勧めた。宸濠はますます内心疑いを深め、十余日、内外の援兵が来ないことを探り知って、ようやく守仁に欺かれたことを悟った、と。
『智嚢補』にいう。王陽明が豊城を過ぎたとき、逆濠(寧王)の変を聞いたが、兵力がまだ整っておらず、急いで川を遡って吉安に赴こうとした。舟人は濠が千余人を発して公(王陽明)を襲おうとしていると聞き、恐れて舟を出そうとしなかった。公は剣を抜いてその(舟人の)耳を切り取り、そのまま出発した。夕暮れになって、これ以上先へ進めないと判断し、密かに漁舟を探して身をやつして進んだ。麾下の一人を留めて自分の冠を着せ、舟の中に居させた。濠の兵は果たして舟を襲い、偽者を捕らえた。(すでに)公が遠くへ去ったことを知って、(追撃を)やめた。公は途中に至り、濠が急いで出撃することを恐れ、そこで間諜を用い、朝廷の密旨を奉じたと偽って、両広・湖襄の都御史および両京の兵部に命令を伝え、それぞれ将を出して兵を発し、要害の地に密かに伏せさせ、宸濠の兵が来るのを待って襲殺させることにした。さらに優人(俳優)数人を選び、それぞれ公文(偽の文書)を袷衣(あわせ)の綿の中に忍ばせた。間諜を出発させようとするとき、また偽の太師(李士実)の家族を捕らえて舟の後ろに置き、彼らにそれを目撃させ、公はわざと怒って引き立て、岸に上げて処刑するふりをし、その後わざと放免して、逃げ帰って(濠に)急報させた。濠は優人を捕らえたところ、果たしてその袋の中から公文を捜し出したので、(出撃を)ためらって出撃しなかった。またいう。公は吉安に至り、兵糧の調達がほぼ整うと、初めて檄文を伝えて兵を徴発し、南昌の省城に向かった。偵者が報告していった。「新旧の廠(工場・陣地)に伏兵一万余りがあり、(南昌城と)呼応する構えである」と。公は兵を間道から遣わしてこれを襲い破らせた。そこで伍文定らに方略を指授していった。まず遊兵(機動部隊)でこれを誘い出し、次にわざと敗走したふりをして誘い寄せ、彼らが先を争って利に趨るのを待って、その後四方から合わせて攻撃し、伏兵も一斉に起こす、という策であった。また城中の宗室が内応して変を起こすことを恐れ、みずからこれを慰撫した。布告を出していった。「脅されて従った者は問わない。かつて賊の官職を受けていた者でも、逃げ帰ることができれば皆死罪を免れる。賊を斬って帰順できた者には皆賞を与える」と。城の内外の住民や道案内の者たちに、四方に伝え広めさせた。また兵を分けて九江・南康を攻め、(濠の)退路を絶った。かくして衆力が一斉に挙がり、逆首(宸濠)は捕らえられた、と。
按ずるに、王文成(守仁)が李士実に対して行ったことは、岳武穆(岳飛)が金の諜者に対して行った故智であり、王文成が優人に対して行ったことは、種世衡が法崧に対して行った故智である。しかしその変化はことに巧妙で、その模倣とは気づかせないほどである。