間書岳飛と種世衡の反間――金の諜者への逆用、野利の離間

要約

- 苗の匪賊と土寇の合流を防ぐには、次のような離間策が参考になる。

- 岳飛と金の間諜:岳飛は劉豫が金の将粘罕と結ぶ一方、金の将兀朮が劉豫を憎んでいることを知り、捕らえた金の諜者を利用した。わざと「以前お前を斉に遣わし兀朮を誘き出す約束をしたのに戻らなかった」と難詰して信じ込ませ、劉豫と共謀して兀朮を誅殺する謀りごとを記した偽の密書を作って股に隠し持たせ、放免した。書を見た兀朮は驚いて主君に報告し、金はついに劉豫を廃した。股に隠させたのは秘密性を高めて信用させるためである。

- 種世衡と野利:西夏の元昊の腹心・野利を除くため、種世衡は野利が送り込んだ降人を間諜として厚遇し、また忠実な僧・法崧を偽って賊と通じたと詰って投獄し、忠誠を確かめたうえで野利宛の偽書を僧衣に縫い込ませて送った。法崧は元昊の拷問に耐えて最後まで自白せず、死の直前にようやく書を出すことで、かえって元昊に事の重大さを信じさせた。結果、野利は殺され、続いて天都も策謀により罪に落とされた。事後、法崧は本姓の王嵩に復し、諸司使にまで昇った。

- 『補筆談』には別伝もあり、袍の襟に世衡の密書を縫い込んだことを法崧自身も知らず、拷問に耐え抜いたためかえって信用された次第が記されている。

現代語訳全文

按ずるに、今、上流・下流の苗の匪賊が合流することを懼れ、苗の匪賊と土寇とが合流することを懼れているのだから、この方法(反間)を参考にしてこれを離間させるべきである。宋の岳飛が金の諜者に対して行った(反間)。

『宋史』岳飛伝にいう。岳飛は劉豫が粘罕(金の将)と結んでいるが、兀朮(金の将)は劉豫を憎んでいることを知っており、これを間諜によって動かすことができると考えていた。ちょうど軍中で兀朮の諜者を捕らえたので、岳飛はわざと(諜者を)責めていった。「お前はわが軍中の者、張斌ではないか。わたしは以前お前を斉(劉豫)のもとに遣わし、四太子(兀朮)を誘致するよう約束したのに、お前は行ったきり戻ってこなかった。わたしは続いて人を遣わして斉に問い合わせたところ、すでに今年の冬に江を犯すことを名目にして会合し、四太子を清河に誘い出すことを承諾させていた。お前が持っていた書がついに届かなかったのは、どうしてわたしに背いたのか」と。諜者は死を緩めてもらいたい一心で、すぐに偽って服した(というふりをした)。そこで(岳飛は)蜜蝋で封じた書を作り、劉豫とともに兀朮を誅殺する謀りごとを語ったことにし、諜者にいった。「わたしは今お前を許す。もう一度斉に遣わすので、挙兵の時期を問うてこい」と。(その書を)股に切り込みを入れて納め、漏らすなと戒めた。諜者は帰って書を兀朮に示したところ、兀朮は大いに驚き、馳せて主君に報告した。(金は)ついに劉豫を廃した。按ずるに、股を割いて(書を)納めさせたのは、いっそう秘密を厳にするためであり、それによって信じさせやすくしたのである。

種世衡が野利に対して行った(反間)。

『宋史』にいう。(西夏の)元昊には腹心の将があり、野利王・天都王と号し、それぞれ精兵を統率して最も害毒をなしていた。種世衡はこれを除き去ろうと謀った。野利はかつて浪埋・賞乞・媚娘の三人を遣わして世衡のもとに降を乞わせたことがあった。世衡はその偽りを知って、いった。「これを殺すよりは、これによって間諜として利用するほうがよい」と。留めて税の監督にあたらせ、出入りに騎馬の従者をつけるなど、たいへん寵遇した。紫山寺の僧に法崧という者がいた。世衡はその堅実質朴で用いるに足ることを見抜き、招いて門下に置き、誘って冠帯(俗人の服装)をつけさせた。そして出兵して賊を捕らえた功を帥府に報告させ、上表して三班の階職を授け指揮使に任じさせ、さらにその家事のために力を尽くし、住居や騎馬・従者の道具に至るまで、備えないものはなかった。崧は酒に酔い賭博にふけり、なすべからざることをことごとく行ったが、世衡はますます厚く彼を待遇したので、崧はついに恩に感じ入った。ある日、世衡は突然怒って崧にいった。「わたしはお前を我が子のように待遇してきたのに、お前はひそかに賊と通じているとは、なんという裏切りか」と。数十日にわたって械(かせ)をつけて拘禁し、その苦しみは極めて過酷であったが、崧はついに怨まなかった。いった。「わたし崧は大夫(士人)である。あなたが奸人の言を聞いて、わたしを殺そうとするなら、死ぬまでのことだ」と。半年ほど経って、世衡はその裏切らないことを見極め、縄を解いて沐浴させ、寝室に招き入れて、手厚くこれを労い謝罪していった。「お前に過ちはない。ただ試したまでのことだ。お前を間諜として用いたいと思うが、その苦しみはこれ以上のものになる。お前はわたしのために最後まで(秘密を)言わずにいられるか」と。崧は泣いてこれを承諾した。世衡はそこで野利に宛てた書を草し、蝋を溶かして衲衣(僧衣)の間に塗り込め、密かに縫い込んだ。そしてこれに嘱していった。「これは死に瀕するのでなければ漏らしてはならない。もし漏れるようなことがあれば、恩に背いて将軍の事を成し遂げられなかったと言うべし」と。また、亀を描いた絵一幅と棗一かごを野利に贈らせた。野利は棗と亀の絵を見て、必ず書があるはずと察し、これを求めたが、崧は左右に目配せして、何もないと答えた。野利はそこでこの一件を封じて元昊に上申した。元昊は崧と野利を数百里の外に召し出し、贈った書について詰問した。崧は堅く書はないと言い張った。杖打ちの拷問は極めて苦しいものであったが、最後まで白状しなかった。また数日後、ひそかにその宮殿に召し出し、人をして問わせていった。「早く言わねば死ぬぞ」と。崧はそれでも言わなかった。そこで(元昊は)引き出して斬るよう命じた。崧はそこで大声で叫んでいった。「むなしく死んでは将軍の事を成し遂げられぬ!わたしは将軍に背いた!わたしは将軍に背いた!」と。その者(役人)が急いで問い詰めたところ、崧はそこで衲衣を脱いで書を取り出した。(元昊は)これを進上させて(読むのに)しばらくかかり、崧を館舎に留まらせるよう命じた。そして密かに寵愛する将を野利の使者と偽らせて、世衡のもとに遣わした。世衡はこれが元昊の使者ではないかと疑い、すぐには会わなかった。ただ属官に毎日館舎に赴かせて労い問わせ、興州のことを問うと詳しく答えるが、野利の部下のことになると詳しくなかった。ちょうど生け捕りにした虜(西夏兵)が数人いたので、世衡はすきを見てひそかにこれを覗き見させたところ、生虜は使者の姓名を口にし、果たして元昊の使者であることが分かった。そこで使者を引見し、手厚くこれを送り返した。世衡は使者が帰り着く頃合いを見計らって、崧をすぐに帰還させたが、野利は死んだと報じられた。世衡はすでに野利を殺すことに成功したので、さらに天都をも除き去ろうとした。そこで境界上に祭壇を設け、祭文を木札に書いた。(その祭文には)二将(野利・天都)が相結んでいたことについて、(成功しかけて)失敗したことを本朝(宋)が悼む、という趣旨を述べた。その祭文を紙幣(供物の紙銭)の中に混ぜておいた。虜が来て、これを見て急いで捨てて帰った。木札の文字はすぐには消えなかったので、虜はこれを手に入れて元昊に献じた。天都もまた罪を得た。(その後)和議が定まるに及んで、崧は本姓に復して王嵩と名乗った。後に官は諸司使にまで至った、と。

按ずるに、この事は『通鑑』宋紀および沈存中(沈括)の『補筆談』にいずれも載っているが、大同小異である。『補筆談』にいう。世衡は崧を手厚く遣わすにあたり、軍機の密事数条を与えていった。「これを手土産にせよ」と。出発に臨んで、着ていた綿入れの袍を脱いで贈っていった。「北地は厳寒である。これをもって別れの印とする。彼の地に至ったならば、あらゆる手立てを尽くして遇乞(すなわち野利)に会うことを求めよ。この人物でなければその腹心を得ることはできない」と。崧はその教えの通りにした。困難を冒して遇乞に通じることを求めたところ、北人(西夏人)はこれに気づいて疑い、役所に捕らえた。数日後、あるいは袍の襟の中から世衡が遇乞に宛てた書が発見され、その言葉はたいへん親密なものであった。崧は当初、襟の中に書があることを知らなかった。虜人は彼を苦しめ尽くしたが、最後まで実情を語らなかった。虜人はそれによって遇乞を疑い、これを殺した。崧は北の辺境に移されたが、逃げ帰った。『筆談』の言うところによれば、襟の中の書は、崧自身もこれを知らなかったという。崧の胆力はいっそう壮んで、その間諜としての働きはさらに秘密裡であり、その策謀はさらに奇抜であった。