間書呉の陸抗の用間――俞讃を死間として用いる
『呉志』にいう。西陵の督(長官)歩闡は、城を挙げて晋に降った。陸抗はこれを聞くと、日夜兵を督励して西陵に赴いた。別に厳重な包囲陣を築き、内には歩闡を囲み、外には(晋の)救援軍を防げるようにし、しかも城を攻めなかった。まもなく、晋の将楊肇が救援にやって来た。この時、我が軍の都督俞讃が突然逃亡して楊肇のもとへ走った。陸抗は言った。「讃は軍中の古参の役人であり、我が方の虚実を知っている。私はかねてから、夷兵(異民族出身の兵)が平素訓練を受けていないことを気にかけていた。もし敵が攻めてくるとすれば、必ずまずこの箇所(夷兵の守る箇所)を狙うだろう。」そこでその夜のうちに夷の民(夷兵)を配置換えし、すべて古参の将にこれを統率させた。翌日、楊肇は果たして元の夷兵がいた場所を攻めた。陸抗はこれを迎え撃ち、矢や石が雨のように降り注ぎ、楊肇は夜のうちに逃げ去った。陸抗は追撃せず、ただ鉦や太鼓を鳴らし喊声を上げさせ、あたかも攻撃するかのように見せた。楊肇の軍は大いに崩れて引き上げた。こうして西陵を回復し、歩闡を誅殺した。
按。俞讃が逃亡して敵の間者となったのを、陸抗はその形勢を利用して逆にこれを反間として用いた。すなわち俞讃を死間としたのである。『孫子』の注に言う、「事を成すにあたり、我が方の間者がこれを知り、それを敵に伝えるが、そうでなければ間者は死ぬことになる」と。蕭世誠の注に言う、「叛いて逃亡した軍士を、そのまま逃げるに任せれば、逃亡した者は必ず敵のもとへ帰る。敵は必ずこれを信用する。(しかし)行けば必ず死ぬことになる。それゆえこれを死間という」と。陸抗が俞讃に対して行ったことは、まさに『孫子』の死間の奥義を極めたものであり、檀道済が降卒に対して行ったことと、その死間を用いる手法は同じである。