間書子貢の用間――魯を存し斉を乱し呉を破る

要約

- 孔子の高弟子貢も間を用いて大事を成した。『李衛公兵法』は子貢・史廖・陳軫・蘇秦・張儀・范雎らがこの術で成功したというが、子貢の事績は『孔子家語』屈節解篇にみえる。

- 斉の田常が魯を伐とうとしていると聞き、孔子は魯を救うため子貢を斉に遣わした。子貢は田常に、魯は守りが薄く伐ちにくいわりに得るものが少ないが、呉は城堅く討ちがいがあると説いた。実際には、田常の本当の憂いは国内の政敵にあり、対外遠征で君主を驕らせ功名を得ることが目的だと見抜き、対外より容易な相手を伐てば田常自身の地位が危うくなると諭し、むしろ呉を伐つよう仕向ける方が有利だと説得した。田常はこれを承諾した。

- 子貢は南下して呉王に会い、亡びかけた魯を助け強大な斉を苦しめれば名実ともに利があると説いた。呉王は越の報復を懸念したが、子貢は越に赴いて越王を訪ね、呉に協力する姿勢を示して疑いを解くよう勧めた。越王は喜び、大夫種を遣わして兵と貢物を呉に献じさせた。

- 呉王が越王自身の従軍を望むと、子貢は不義であるとしてこれを諫め、越王本人の出兵は辞退させるべきだと助言した。呉王はこれに従い、九郡の兵を発して斉を伐った。子貢はさらに晋にも赴き、戦に備えるよう説いた。

- 結果、呉は艾陵で斉軍を大破し、その勢いで晋と黄池で争ったが敗れ、その隙を突いて越が呉を襲い、ついに呉王夫差を滅ぼした。こうして子貢はただ一度の遊説によって、魯を存続させ、斉を混乱させ、呉を破り、晋を強め、越を覇者に押し上げたのである。

- 著者の按:これは子貢の用間の事跡であり、『国語』『越絶書』『呉越春秋』『史記』にも同様に記される。子貢の間は『孫子』のいう「生間」にあたり、斉・呉・越・晋の四国を互いに離間させた手法は『李衛公兵法』にいう「間鄰」の法にあたる。その策謀はことに巧妙で、弁舌はとりわけ精緻であった。

現代語訳全文

孔子の高弟である子貢のような者も、かつて間を用いて事を成し遂げたことがある。

『李衛公兵法』にいう。子貢・史廖・陳軫・蘇秦・張儀・范雎らは、皆この術(間諜の術)に頼って成功した、と。按ずるに、子貢が間を用いた事は『孔子家語』に見える。

『孔子家語』屈節解篇にいう。孔子が衛にあったとき、田常がまさに乱を為さんとしていること、しかも(田常が)高氏・国氏・鮑氏・晏氏を憚っていることを聞き、そこでその兵を魯を伐つことに振り向けようとしていることを聞いた。孔子はこれを聞き、諸弟子を集めて告げていった。「魯は、(先祖の)墳墓のある地であり、父母の国である。救わないわけにはいかない。今わたしは田常に対して節を屈してでも魯を救いたいと思う。諸君の中で誰か使いに行く者はいるか」と。子貢が行くことを願い出て、孔子はこれを許した。そこで(子貢は)出発し、斉に至った。田常を説いていった。「魯は、伐ちがたい国であるのに、あなたはこれを伐とうとしている。それは過ちです」と。田常はいった。「魯のどこが伐ちがたいというのか」と。子貢はいった。「その城壁は薄くて低く、その領地は狭くて(守りに)漏れがあり、その君主は愚かで不仁であり、その大臣は偽り多くて役に立たず、その士民もまた甲兵の事を嫌っています。これでは戦うに値しません。あなたは呉を伐つのがよいでしょう。呉は、城は高くて厚く、堀は広くて深く、甲は堅くて新しく、士は選び抜かれて食も足り、重器精兵はことごとくその中にあり、しかも賢明な大夫にこれを守らせています。これは伐ちやすいのです」と。田常は憤然として色を作していった。「あなたが難しいとするものは人の易しいとするところであり、あなたが易しいとするものは人の難しいとするところである。それをもって常(田常)に教えるとは、どういうことか」と。子貢はいった。「わたしはこう聞いております。憂いが内にある者は強者を攻め、憂いが外にある者は弱者を攻める、と。今あなたの憂いは内にあります。わたしが聞くところでは、あなたは三度封ぜられて三度とも成らなかったのは、大臣の中に聞き従わない者がいるからです。今あなたはまた魯を破って斉を広げ、戦に勝って主君を驕らせ、国を破って臣(自身)を尊くしようとしていますが、あなたの功はそこには与りません。そうなれば、あなたと主君との仲は日に日に疎くなるでしょう。これはあなたが上は主君の心を驕らせ、下は群臣を恣にすることであり、それでいて大事を成そうとするのは難しいことです。上が驕ればすなわち(臣は)恣になり、下が恣になればすなわち(臣同士が)争います。これはあなたが上は主君と隙を生じ、下は大臣と互いに争うことになります。このようであれば、あなたが斉において立つ地位は危ういのです。ですから、『呉を伐つのに越したことはない』と申すのです。呉を伐って勝てなければ、民人は外で死に、大臣は内で(勢力が)空しくなります。そうなればあなたは上には強臣という敵がなく、下には民人の咎めもなく、主君を孤立させて斉を制する者は、ただあなただけとなります」と。田常はいった。「よろしい。そうではあるが、わたしの軍はすでに魯に向けて出発している。これを離れて呉に向かえば、大臣がわたしを疑うであろう。どうしたらよいか」と。子貢はいった。「軍の進発を緩めてください。わたしは呉王にお目にかかり、魯を救って斉を伐つよう仕向けましょう。あなたはそれに乗じて兵を(呉に)迎え撃たせればよいのです」と。田常はこれを承諾した。子貢はそこで南に下り呉王に会っていった。「わたしはこう聞いております。王者は(他国の)世を絶やさず、覇者は強敵を作らない、と。千鈞の重さも、銖両(わずかな重さ)を加えれば傾く、と。今、万乗の斉が千乗の魯を私しようとし、呉と強を争おうとしています。わたしはひそかにこれを王のために憂えるものです。そもそも魯を救うことは、名を顕すことです。斉を伐つことは、大きな利益です。それによって泗水のほとりの諸侯を撫で、暴虐な斉を威圧し、強大な晋を服させれば、これに勝る利益はありません。名は亡びかけた魯を存続させることにあり、実は強大な斉を苦しめることにあります。王よ、どうかお疑いなさいませぬよう」と。呉王はいった。「よろしい。そうではあるが、わたしはかつて越と戦い、(越王を)会稽に追い詰めたことがある。越王は今、身を苦しめて士を養い、呉に報復する心を持っている。わたしが越を伐ってからにしよう」と。子貢はいった。「越の強さは魯を越えず、呉の強さは斉を越えません。王が斉を放置して越を伐てば、斉は必ず魯を私するでしょう。しかも王はまさに亡びかけたものを存続させ絶えかけたものを継がせることを名としているのに、小さな越を伐つことを(優先し)強大な斉を畏れるのでは、勇とはいえません。そもそも勇者は難を避けず、仁者は窮した者を見捨てず、智者は時を失わず、義者は(他国の)世を絶やしません。今、越を存続させれば、諸侯に仁を示すことになり、魯を救い斉を伐てば、威は晋国にまで及びます。諸侯は必ず相率いて呉に朝することになり、覇業は成るでしょう。もし王がどうしても越を憎むというのであれば、わたしは東に赴いて越王に会い、兵を出して(呉に)従わせましょう。これは実際には越を空にすることであり、名目上は諸侯を従えて(斉を)伐つことになります」と。呉王は大いに喜んだ。そこで子貢を越に遣わした。越王は道を掃き清め、郊外まで出迎え、自ら(子貢の泊まる)宿舎まで送って問うた。子貢はいった。「今、わたしは呉王に魯を救い斉を伐つことを説きましたが、その志はそうしたいと思いながらも、心では越を畏れています。『わたしが越を伐ってからにしよう』と申しました。このようであれば、越は必ず破られます。そもそも人に報復する意志がないのに人にそれを疑わせるのは拙いことであり、人に報復する意(つもり)があるのにそれを人に知られるのは危険なことであり、事がまだ起こらないうちに先に漏れ聞こえるのは、危ういことです。この三つは、事を挙げるにあたっての大きな禍いです」と。越王は頓首再拜していった。「わたし(孤)は若くして父を失い、内において自分の力量をわきまえず、呉と戦って会稽に追い詰められました。その痛みは骨髄に染み入り、日夜、唇を焦がし舌を乾かして(苦しみ)、呉王と踵を接して(相討ちで)死ぬことこそ、わたしの願いです」と。そこで子貢に(策を)問うた。子貢はいった。「呉王の人となりは暴虐で猛々しく、群臣はこれに堪えられません。国家は度重なる戦で疲弊し、士卒はこれに耐えられません。百姓は上を怨み、大臣は内で変心しています。伍子胥は諫めて死に、太宰嚭が政を執って、主君の過ちに順って自らの私を安んじています。これはまさに呉王に報復する時です。今、王が誠に士卒を発して(呉を)助け、その志を叶えさせ、重い宝物でその心を悦ばせ、へりくだった言葉でその礼を尊べば、呉が斉を伐つことは必定です。彼らが戦って勝てなければ、王の福です。戦って勝てば、必ず兵を晋に臨ませるでしょうから、わたしに北に行って晋君に会わせてください。共に(呉を)攻めるよう仕向けましょう。呉の鋭兵は斉で尽き、重装の甲兵は晋で疲弊し、王がその疲弊に乗じれば、これは呉を滅ぼすこと必定です。聖人のいわゆる節を屈して伸びることを求める、とはこのことです」と。越王は大いに喜び、これを承諾した。子貢に黄金百鎰、剣一振り、良い矛二振りを贈った。子貢はこれを受けず、そのまま出発して呉に報告に戻った。五日後、越王は国内の兵をことごとく発し、大夫種を遣わして、頓首して呉王にいわせた。「東海の役臣、勾践の使者たる臣種、謹んで下吏を通じ、御側に伺いを立てます。今聞くところによれば、大王はまさに大義を興し、暴を誅して弱きを救い、強大な斉を苦しめて周室を撫でようとしておられます。どうか国内の士卒三千人をことごとく起こさせてください。わたし(孤)自らも堅い甲を身につけ鋭い武器を執って、まっさきに矢石を受ける覚悟です。それゆえ越の賤しい臣である種をして、先祖伝来の甲二十領、屈盧の矛、歩光の剣を献上させ、軍吏を祝賀させます」と。呉王は大いに喜んだ。これを子貢に告げていった。「越王はみずから寡人に従って斉を伐とうとしているが、よろしいか」と。子貢はいった。「よろしくありません。人の国を空にし、人の民をことごとく動員し、さらにその君主まで従わせるのは、不義です。あなたはその贈り物を受け、その軍を許すべきですが、その君主自身は辞退させるべきです」と。呉王はこれを承諾し、そこで越王に断りを入れた。かくして呉王は九郡の兵を発して斉を伐つことになった。子貢はそれを機に晋に赴き、晋君にいった。「わたしはこう聞いております。あらかじめ思慮を定めておかなければ急場に応じることはできず、あらかじめ兵を整えておかなければ敵に勝つことはできない、と。今、斉と呉はまさに戦おうとしています。彼らが戦って勝てなければ、越が乱を起こすこと必定です。斉と戦って勝てば、必ずその兵を晋に臨ませるでしょう」と。晋君は大いに恐れていった。「どうしたらよいか」と。子貢はいった。「兵を整え、士卒を休ませてこれに備えてください」と。晋君はこれを承諾した。子貢はそこを去って魯に赴いた。呉王は果たして斉人と艾陵で戦い、斉の軍を大破し、七将軍の兵を得てそのまま帰らず、果たして兵を晋に臨ませ、晋人と黄池のほとりで会した。呉と晋は強を争った。晋人がこれを撃ち、呉の軍を大いに破った。越王はこれに乗じて江を渡って呉を襲い、城を去ること七里のところに軍を布いた。呉王はこれを聞き、晋を離れて帰り、越と五湖で戦った。三戦して勝てず、城門も守りきれず、越はついに王宮を囲み、夫差を殺してその宰相を戮した。呉を破って三年、(越は)東に向かって覇者となった。ゆえに子貢が一たび出て、魯を存続させ、斉を乱し、呉を破り、晋を強くして越を覇者たらしめたのである。

按ずるに、これは子貢が間を用いた事である。『国語』・『越絶書』・『呉越春秋』・『史記』は皆これを載せており、『家語』の記すところと、おおむね同じである。子貢の間は、すなわち『孫子』にいう「五間」のうちの「生間」である。彼が斉・呉・越・晋の間を離間させたのは、すなわち『李衛公兵法』にいう「間鄰」の法である。しかもその策謀はことに巧妙であり、その弁舌はとりわけ精緻である。