間書清太宗の用間――袁崇煥誅殺と邦汋・伣・諜の語義
要約
- 清の太宗(ホンタイジ)もかつて間を用いて明の経略袁崇煥を殺させ、それが後の天下平定の一因となった。崇煥は太祖ヌルハチの死に際して弔問使を送り、和議を通じて虚実を探ろうとしたが、崇禎七年、清軍が薊州を越え京師近くまで攻め込んだ際、崇煥は敵を放って兵を擁していると疑われた。清側は謀略で崇煥が密かに敵と約定していると称する情報を捕虜の宦官に流し、これを逃がして帝に告げさせた。帝はこれを信じ、崇煥を捕らえて獄に下した。
- 間諜を表す語は書物によって異なる。『太公六韜』は「遊士」、周公撰と伝わる『周礼』は「邦汋」(密事を推し量って盗み知ること)と呼び、『爾雅』は「伣」、『左伝』は「諜」と呼ぶ。『左伝』には楚が羅人に諜せられた例や、晋が秦の諜者を捕らえた例、原の囲みで諜が城内の情勢を報じた例などが載る。
- 著者の按:諜とはすなわち間である。『説文』は「軍中の反間」とし、敵国の人を装って軍中に入り情報を主人に反報する者とする。鄭玄・杜預・郭璞の注もいずれも同旨で、諜(間)とは敵情をうかがう反間の者を指すとする。
現代語訳全文
わが朝(清)の太宗文皇帝もまた、かつて間を用いて明の経略袁崇煥を殺し、天下を奄有(すべて統治)するに至った。
『明史』袁崇煥伝にいう。これより先、崇禎六年八月中、わが太祖高皇帝(ヌルハチ)が崩御した。崇煥は使者を遣わして弔問させ、かつそれによって(わが方の)虚実を知ろうとした。わが太宗文皇帝(ホンタイジ)は使者を遣わしてこれに答えた。崇煥は和議を結ぼうとし、書を使者に附して帰らせ報告させた。七年十一月、大清の兵が薊州を越えて西進した。崇煥は入って京師を護り、大軍と激しく戦った。互いに殺傷しあった。都の人々は突然の戦に遭い、怨みと誹りが盛んに起こった。崇煥が敵を放って兵を擁している、と言われた。朝廷の官吏たちは、以前の和議の一件によって、彼が敵を引き入れて(朝廷を)脅して和を求めさせようとしていると誣いた。帝はこれをかなり耳にしていた。折しもわが大清が間を設け、崇煥が密かに(敵と)約定を結んでいると称し、捕らえた宦官にこれを知らせ、ひそかに放って去らせた。その者は逃げ帰って帝に告げ、帝はこれを信じた。十二月朔、(帝は)ついに(崇煥を)縛って詔獄に下した。
『太公六韜』もまた間を用いることを重んじている。
『太公六韜』にいう。遊士八人は、奸を伺い変を候し、人情を開闔(開き閉じ)し、敵の意図を観察することを主とする。これを間諜とする、と。周公が撰した『周礼』にいうところの「邦汋」とは、すなわち間のことである。
『周礼』秋官にいう。士師の職は、士(罪)の八成を掌る。その一を邦汋という。注にいう、汋は酌と読む。密事を斟酌(推し量って)盗み取ることで、今でいう刺探(さぐり出す)事のようなものである、と。『爾雅』はこれを「伣」という。
『爾雅』釈言にいう。「間」は伣なり、と。疏にいう、反間は、一名を伣という、と。『左伝』はこれを諜という。
『左伝』桓公十二年にいう。楚(の軍)が絞を伐ち、(軍を)分けて彭水を渡ったとき、羅人はこれを伐とうとし、伯嘉を遣わしてこれを諜わせ、三度めぐってこれを数えさせた、と。また宣公八年にいう。晋人は秦の諜者を捕らえ、これを絳の市で殺したが、六日して蘇(生き返)った、と。また(荘公二十八年に)いう。諜が告げていった、楚の幕舎に烏がいる、と。(哀公十一年にいう)、斉人はいずれ遁走するだろう、と。また(僖公二十五年に)いう。晋侯が原を囲んだとき、諜が出て来ていった、原はまもなく降伏するでしょう、と。
按ずるに、諜とはすなわち間である。『説文』にいう、諜は軍中の反間なり、と。すなわち敵国の人を装って、その軍中に入り込み、間隙を伺い、それによって主人に反報することをいう。また、鄭康成の『周礼』掌戮の注にもいう、諜とは、奸寇の反間する者をいう、と。また、杜預の『左伝』注にもいう、諜とは伺うことである。兵書はこれを反間という、と。また、郭璞の『爾雅』注にもいう、間は、『左伝』ではこれを諜という、と。