間書用間の起源――夏の少康と女艾、伊尹

用間(間諜を用いること)は夏の少康に始まり、女艾を遣わして澆を間諜させたことによる。

『左伝』哀公元年にいう。少康は女艾を遣わして澆を諜せしめ、季杼を遣わして豷を誘わせ、ついに過・戈の二国を滅ぼした、と。殷の伊尹もかつて自ら間諜となったことがある。これを疑う者は、迂遠な儒者である。

『孫子』用間篇にいう。殷の興るや、伊摯(伊尹)は夏にあり、周の興るや、呂牙(太公望)は商(殷)にあった。明君賢将にして、上智の者を間諜として用いることのできる者は、必ず大功を成す。これは兵の要であり、三軍がこれを頼みとして動くところのものである、と。『困学紀聞』にいう。伊尹・呂尚は聖人の伴侶(の関係)であって、(伊尹・呂尚が間諜であったというのは)これは戦国の弁士が聖賢を誣いたものである、と。

按ずるに、伊尹は聖人の中でも自ら重責を担う者であり、民を水火の苦しみから救った。自ら間諜となったとして、それが何の傷になろうか。(王応麟、字は)伯厚は儒に拘泥し、その見識は狭く、いまだ開けていない。孫子の言には、もとより根拠があるはずであり、憶測によって論駁すべきではない。孫子が尹を「摯」と称するのは、尹の本名が摯であるからで、蔡邕の『釈誨』に「伊摯には鼎を負う衒(てらい)あり」とあり、その注に「摯は伊尹の名なり」とある。これによって証することができる。他の書が「尹」と称するのは、なお(彼を)阿衡・保衡と称するのと同じで、名ではない。