綱
- 清の太宗文皇帝(ホンタイジ)もまた間諜を用いて明の経略・袁崇煥を殺し、天下を手中にした。
事例
- 『明史』袁崇煥伝 ― 太祖高皇帝(ヌルハチ)の崩御に際し、袁崇煥は弔使を送り、あわせて虚実を探ろうとした。太宗も返礼の使者を送り、崇煥は和議を望んで書を使者に託した。
- のち大清の兵が薊州を越えて西進すると、崇煥は京師の防衛に入り激戦を繰り広げたが、突然の兵災に遭った都の人々からは「敵を放置して兵を握り込んでいる」との怨嗟が起こった。朝廷の士も、以前の和議のやりとりを取り上げて「敵を引き入れて和を強いた」と誣告した。
- そこへ大清側が間諜を仕掛けた。「崇煥にはひそかに成約がある」という話を、捕らえた宦官にわざと聞かせ、こっそり逃がしたのである。宦官はそれを帝に告げ、帝はこれを信じて、十二月朔、崇煥を捕縛して詔獄に下した。
- ※原文は「崇禎六年八月」「七年十一月」とするが、ヌルハチの死は天啓六年、崇煥の下獄は崇禎二年十二月であり、年号に混乱がある。
各書における間諜の呼称
- 『太公六韜』 ― 「遊士八人、姦を伺い変を候い、人情を開闔し、敵の意を観て、もって間諜と為す」。六韜もまた間諜を重んじている。
- 『周禮』秋官(邦汋) ― 「士師は士の八成を掌る。一に曰く邦汋」。注に「汋は酌と読む。密事を斟酌して盗み取ること、今の刺探事のごとし」。
- 『爾雅』釋言(伣) ― 「間は伣なり」。疏に「反間、一名を伣という」。
- 『左傳』(諜) ― 桓公十二年「楚が絞を伐ち、羅人が伯嘉に偵察させた」。宣公八年「晋人が秦の諜者を捕らえて絳の市で殺したが、六日して蘇生した」。荘公二十八年「諜者が告げて言うには、楚の幕舎に烏がとまっている(=もぬけの殻だ)」。哀公十一年「斉人はおそらく退却するだろう」。僖公二十五年「晋侯が原を囲むと、諜者が出てきて『原はまさに降伏しようとしている』と言った」。
按(朱逢甲の評)
- 諜とは間のことである。『說文』に「諜は軍中の反間なり」とあり、敵国の人間のふりをしてその軍中に入り、隙をうかがって主人に報告する者をいう。
- 鄭玄の『周禮』掌戮注も「諜とは姦寇の反間する者」とし、杜預の『左傳』注も「諜は伺うなり。兵書にこれを反間という」とし、郭璞の『爾雅』注も「間は『左傳』にこれを諜という」とする。いずれも同じ意味である。