西夏書事卷四十二 宋理宗(金正大二年・蒙古太祖二十年) 寶慶元年(夏乾定二年) 1225年

質子問題をめぐる対蒙古交渉

  • 春三月、蒙古の使者が質子の提供を求めてきたが、遣わさなかった。徳旺は逡巡し、右丞相高良惠は「彼が強く我が弱い以上、宗室の賢者を選び王号を与えて蒙古の歓心を得るべき」と進言したが、徳旺は金との修好を優先し、樞密使李元吉も蒙古への不信を説いて反対、結局使者孛禿を空手で帰した。

史論

  • 昔から盟を結ぶには信、それでも信じられねば質を用いるものだが、質を約しながら遣わさなかったことで、後の降伏すら信用されなくなったと評す。徳旺が前に慎重を欠き後に軽々しく翻したことが禍を早めたと論じる。

張公輔の七事の上疏

  • 夏六月、太白が昼間に現れた。徳旺が直言を求めたのに応じ、殿中御史張公輔が国政に関する七事を上疏した。潰散した兵民の招集・蒙古への質子提出による信義の確保・城池の修築・軍政の整備・金との烽火連携の構築・倹約による軍備の充実・蒙古の弱点を突く出撃機会の把握、の七点である。徳旺はその切実さを評価し御史中丞に抜擢した。

対金関係の修復

  • 秋七月、宗室の李楨が金に入った。国の疎族である楨は父が乱により仕官を避け金に移った縁で経童試に及第した。
  • 八月、金へ使者を送り議和を進めた。李仲諤ら夏の使者は「兄」として金に事える形での和睦を求めたが、金の官吏との交渉で歳幣の名分をめぐり応酬があり、最終的に議は定まった。
  • 九月、蒙古の仇敵である赤臘喝翔昆が夏に来奔し、これを受け入れた。乃蛮部屈律罕の子で、父の死後蒙古主に追われ夏に逃れてきたもの。
  • 冬十月、南院宣徽使羅世昌が罷免された。世昌は金の勢いの衰えを見て自強を説き、赤臘喝翔昆の受け入れに反対したが聞かれず辞職した。世昌はのちに『夏国世次』二十巻を著したと伝わる。
  • 十一月、金の使者が答礼に来た。金主は書に「兄大金皇帝より弟大夏皇帝へ」と記させ、以後修好が続いた。
  • 十二月、金と互市を再開した。また金への正旦の賀使を派遣し、金は使者への接遇を手厚くした。その儀礼の詳細が記される。