西夏書事卷四十二 宋理宗(金正大三年・蒙古太祖二十一年) 寶慶二年(夏乾定三年) 1226年
蒙古の河西侵攻
- 春二月、蒙古が黒水城を攻め破った。蒙古主が積怒し親征、徳旺が橋を撤去して抵抗したが宣撫使王樴が急ぎ橋を修復させ渡河、河西の諸部を撃破し黒水城を落とした。
- 三月、科挙を行い高智耀らに進士及第を賜った。智耀は右丞相高良惠の孫で国事の困難を見て任官を望まず、後年賀蘭山に隠れた。
- 河西で旱害が起こり草木が枯れ民は食に窮した。
蒙古軍の攻勢と国主の相次ぐ死
- 夏四月、蒙古兵が渾垂山に駐屯し暑を避け、周辺を掠奪した。
- 五月、粛州が屠られた。守将は蒙古千戸昔里鈐部の兄で降伏を拒み、落城後は軍民ともに殺された。
- 上皇となっていた故主遵頊が没した。享年六十四、在位十三年、改元一度、諡は英文皇帝、廟号は神宗。
史論
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遵頊は才があり時勢にも恵まれたが、金との旧好を保ち連携すべきところ、宋・金の間を行きつ戻りつして両属の兵を用い、結局は北兵に抗せず出奔・内禅に至ったと評す。父子が相次いで没したことを不幸中の幸いとし、さもなくば徽宗・欽宗の例に倣ったであろうと論じる。
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六月、蒙古が甘州を取り、副将阿綽らが死んだ。甘州の守将曲也怯律は蒙古将察罕の父であったが、副将阿綽ら三十六人が降伏に反対し使者と怯律一族を殺して抗戦、蒙古主自ら攻め落城とともに阿綽らは死んだ。
- 秋七月、蒙古が西涼府を破った。宿衛官粘合重山が流矢を受けても指揮を続け、守将斡扎簀は力尽きて降伏、周辺の県も次々降った。
- 国主徳旺が没し、弟の子晛が立った。蒙古兵の深入りに憂え病を発して没した。享年四十六、在位四年、改元一度、廟号は獻宗。国人は弟の清平郡王の子である南平王晛を立て、金へ喪を報じ弔問を受けた。
史論
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徳旺は艱難の時に立ち、用兵を止め忠言を容れて和議に努めたが、疲弊した国力を立て直せず在位三年で病没したことを憐れむ。滕文公・簡文帝の例を引き、憂患を知りながら生き延びられなかったことを惜しむ。
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八月、蒙古兵が応里等の県を破った。応里は蘭州と接し、蒙古主は沙陀を越え黄河九渡から攻め落とした。
- 九月、金が以前掠めた人口を返還した。夏の国力衰退を見た金主の措置であった。
- 冬十月、蒙古が夏州を破り、州人の朮速忽里が降った。蒙古主はこれを宿衛に取り立て膳事を司らせた。
- 十一月、蒙古が霊州を取り兀納剌城を落とし、故太子徳任がここで死んだ。晛は大将嵬名令公に十万の兵をつけ霊州を救援させたが蒙古軍に渡河を阻まれ敗走、続いて兀納剌城も落ち、徳任は捕らわれ屈せず死んだ。子の惟忠は七歳で殉死を願ったが蒙古将に助けられた。
史論
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「故太子」と書くのはその廃位を憐れむためであり、「死之」と書くのはその節義を讃えるためである。廃されずに国を継いでいれば亡国の助けにはならずとも、社稷に殉じた君としての誉れは晛の降伏に勝ったであろうと論じる。
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十二月、蒙古兵が塩州川に至り住民を大いに殺した。蒙古主は攻略した城邑をめぐり、なお遺民を捜し尽くして殺したため、白骨が野を覆い数千里が焼け野原となった。
史論
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「大殺」と書くのは蒙古の暴虐を著すためである。国は民を本とするのに土地を取って民を滅ぼすのは、取らないのと変わらないと批判し、蒙古の強大さもわずか二代で乱れたのは天道が殺戮を厭い罰を下したためかと問う。
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蒙古が中興府を包囲した。大将阿魯朮が諸軍を率いて迫ったが晛の防戦に阻まれ長期の包囲戦となった。
- 金へ使者を送り、使節往来の停止を求めた。蒙古の侵攻が激しかったためである。