西夏書事卷四十二 宋寧宗(金哀宗正大元年・蒙古太祖十九年) 嘉定十七年(夏乾定元年) 1224年
災異と籠城の構え
- 春正月、裕陵・泰陵に火災があった。草木が血に染まったように見え、徳旺は官に命じ二十日にわたり祓いを行わせた。
- 二月、漠北の諸部族と結び蒙古への対抗を図った。徳旺は蒙古主が西域遠征中でいまだ戻らないのを聞き、諸部に外援を求め諸部もこれに応じた。
蒙古の侵攻と沙州・銀州の攻防
- 夏五月、蒙古兵が沙州を囲んだが落とせなかった。蒙古主は自ら西域から戻り夏国に異心ありと聞いて出兵、城を落とせぬまま夜に穴を穿って侵入を試みたが、守将籍辣思義が火を放って撃退し城を保った。
- 秋九月、蒙古が銀州を破った。沙州を長く攻めても落ちぬため、蒙古は銀州へ矛先を転じ大将孛魯・黑馬らが分兵して攻め、監府塔海は敗れて捕らえられ、数万級を斬り牛羊数十万を得て銀州は陥落した。
史論
- 蒙古の強大さは夏の力で制しうるものではなく、徳旺が即位早々に諸部を結んで味方につけたのは巧みな策であったが、機密が漏れて逆に利用されてしまったことを惜しむ。天が蒙古を助けたのか、それとも謀の不備かと問う。
対金修好と蒙古への降伏交渉
- 冬十月、金に修好を求める表を奉った。夏は宣和末以来八十余年金に臣従し兵乱少なかったが、蒙古の侵攻で金の援けを失い金との十年に及ぶ抗争で両国の精鋭を消耗したため、徳旺は右丞相高良惠の献策により金に修好を求めた。
史論
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隣国と誼を結ぶことは春秋の是とするところであり、金の勢いがまだ衰えぬうちに結んでいれば蒙古に対抗できたはずが、両国とも疲弊し切ってからようやく和を求めたことを惜しみ、徳旺は父より優れた智を持ちながら時運に恵まれなかったと評す。
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十一月、蒙古に使者を送り降伏を請い、沙州の囲みが解かれた。銀州陥落と漠北諸部の潰散を聞いた徳旺は質子を条件に降伏を願い出て、蒙古はようやく囲みを解いた。城中は半年守り抜き食料も尽きかけていた。