西夏書事卷四十一 宋寧宗(金元光二年・蒙古太祖十八年) 嘉定十六年(夏光定十三年) 1223年
鳳翔攻囲と撤退
- 春正月、将を遣わし蒙古と共に金の鳳翔を囲んだが落とせず、引き上げて先に帰った。歩騎十万で木華黎軍と合流し数百里に営柵を連ねて猛攻したが、金の赤盞石喜・郭蝦蟆の防戦で落とせないと悟り、木華黎に告げずに撤退した。
史論
- 夏はこれまで蒙古の先鋒として「会」「従」の語で記されてきたが、ここで「先帰」と書くのは両者の間の亀裂を示す。これ以後夏は蒙古と共同せず、蒙古の夏征服の意志もこの時に固まったと論じる。
太子德任の幽閉
- 夏四月、太子徳任を霊州に幽閉した。遵頊が金侵攻を命じようとしたのに徳任は和議を諫めたが聞き入れられず、太子位を辞し僧となることを願い出たため遵頊は怒って霊州に幽閉し、人を代えて出兵させた。
史論
- 太子は国の後継であり大罪なくして廃されないものだが、徳任は父の窮兵を諫めて位を辞そうとしたのであり、遵頊がこれを罪とみなしたことを批判する。秦の扶蘇・隋の楊勇の例を引き、拓跋氏の衰退もこれと変わらないと論じる。
旱害と対金・対蕃攻防
- 五月、大旱となった。興・霊で春から雨がなく五月に至り麦が実らず飢民が人を食う惨状となったが、遵頊は兵を集めきれなかった。
- 六月、金の隴安軍を侵した。金の延安・慶原元帥府は攻勢を議したが陝西行省元帥白撒は時期尚早として守りを勧めていた中、隴安節度使完顏阿鄰が軍務を怠っていたのに乗じ、夏は万騎で十余日攻め人民五千余と家畜を奪った。
- 秋七月、金の積石州を破り𦍑界寺族を降した。遵頊が親軍万人で積石を攻め破り、多くの蕃族が降ったが看逋・昭逋・斯没ら一部は従わなかった。
- 八月、熒惑が輿鬼に入り積尸気を掩った。金の陰坡族を誘って叛かせたが、金の元帥夾谷瑞がこれを討ち破り夏は救えなかった。
- 九月朔、日食があった。日は既に欠け光を失い、興慶府外で大風が木を抜いた。
- 冬十月、蒙古兵が積石州を囲んだが五日で解いた。鳳翔の一件で夏の無礼を怒った蒙古が積石を攻め掠奪したが、金軍の背後の動きを聞き囲みを解いた。
- 御史中丞梁德懿を罷免した。徳懿は用兵十余年による国の疲弊と太子廃斥を諫める上言をしたが、遵頊はその直言を怒り致仕させた。徳懿は退隠後十余年を経て没した。
会州陥落と譲位
- 十一月、金人が会州を取り戻した。金の鞏州元帥田瑞と通遠節度郭蝦蟆が会州回復を図り、蝦蟆自ら騎兵五百を率いて奇襲し、夏の守兵は震撼して降った。
- 十二月、国主が子の徳旺に位を伝えた。蒙古がたびたび使者を送り譴責したのを恐れ、遵頊は次子徳旺に譲位して自ら上皇と号した。
史論
- かつての太子への禅位は人心をつなぎ天下に号令するためであったが、遵頊の譲位にはそうした大義はなく、ただ蒙古の兵を恐れて責任を子に委ねただけであると評す。