西夏書事卷三十五 宋高宗(金天眷二年) 紹興九年(乾順大德五年) 1139年
乾順の死と仁孝の即位
- 春正月、金の正旦および万寿節を賀う使者を送った。高麗の貢使が未帰国であったため、金主は宴を賜り夏使は高麗の三使とともに会した。
- 太白と熒惑が井宿で合する天象があり、司天は用兵不利を説いたが乾順は聞かなかった。
- 二月、李世輔が叛いた酋長を討ち平らげ、乾順は枢密使王樞と大将訛を陝西攻略に出兵させた。李世輔がしきりに復讐の兵を請うと、乾順は功を立てれば兵を貸すと答え、辺患となっていた青面夜叉を三千騎で急襲して捕らえさせた。乾順は喜び娘を娶わせようとしたが世輔は父の喪を理由に断り、二十万騎を発して王樞・訛を陝西招撫使、世輔を延安招撫使に任じ東進させた。
- 金に降っていた慕洧が投降を願い出て、再び受け入れられ山訛の首領とされた。慕洧は金の熙河経略使となっていたが、金が陝西・河南の地を宋に返還する際に関中に留められることを恐れ、涇原路経略使張中彦らの討伐を受けて敗れ、夏に逃れた。
- 三月、府州を攻めてこれを取った。金将撒離喝が府州守将折可求を毒殺した後、府州が主を失った隙に乾順は兵を送って城を奪った。
- 夏四月、霊芝が生じた。堂後官高守忠の家に生じ、百官が賀を上表し、乾順は『霊芝歌』を作り群臣が唱和して石に刻んだ。
- 五月、李世輔が王樞を捕らえ、訛の兵は潰えて逃げ帰った。世輔は延安に至り金との和議で陝西が宋に返ることを知ると、旧部八百騎を率いて王樞・訛の陣営に帰順を説いたが、訛は拒み世輔と争闘となった。世輔は訛を斬ろうとして果たせず王樞を捕らえ、訛軍を撃破して三千の兵とともに宋に帰順した。
- 六月、国主乾順が没し、子の仁孝が立った。享年五十六、在位五十四年、改元八度、諡は聖文皇帝、廟号は崇宗。長子仁孝が十六歳で即位したが、金の従属国であることを理由に宋は冊命を廃し、夏も告哀の使者を送らなかった。
- 秋九月、金に使者を送り喪を告げた。
- 冬十月、王樞が帰還した。捕らえられていた王樞は宋の宣諭使周聿の計らいで俘虜百九十人とともに送還され、境まで送迎の伴が付けられた。
- 十一月、母の任氏・曹氏を太后に尊んだ。仁孝は両母を等しく礼遇し奉養した。鄜延諸路で陥落した軍民を帰した。王樞の帰還を機に、宋の辺吏の招きに応じて捕虜たちを解放した。