西夏書事卷三十 宋哲宗(遼壽昌四年) 元符元年(乾順永安元年) 1098年

十里井の戦いと大定城侵攻

  • 春正月、鄜延官軍が塞門から夏境に入り、大首領凌吉訛遇らの迎撃を退けたが、追撃した順寧砦監押石福が十里井で戦死した。
  • 二月、夏軍が蘭州境の大定城を侵したが、知州王舜臣の出撃を聞き退いた。追撃を受け帯牌天使数名が戦死した。

監軍阿燕らの内附

  • 三月、監軍阿燕が子の襄渠と一族約千人を率いて宋に内附し、その後も部族が続々と投じた。哲宗は阿燕に宥州刺史などを授け懐明と改名させた。

没烟峡・順寧砦をめぐる攻防

  • 夏四月、涇原官軍が没烟峡から夏の屯兵地を襲い戦利品を得て退いた。
  • 大首領嵬名薬黙が熙河路経由で宋に内降した。
  • 監軍嵬名済が鄜延に入り順寧砦を包囲したが、副将張守徳の迎撃を受け敗走した。

夏州侵攻と大沙堆の戦い

  • 五月、鄜延官軍が夏州を攻め、梁氏は大首領嵬名乞勒らに大沙堆の蕃族を守らせたが、苗履の攻撃を受け大敗し五十里退いた。

遼への援兵要請と蕃部の内奔

  • 六月、乾順は繰り返し遼へ援兵を求めたが遼は動かず、梁氏自らも上表したが怨言が多く遼主の不興を買った。
  • 蕃部の喝强山・訛心が涇原経由で宋に内奔し、夏が今秋に一路へ集中侵攻し人民を殺掠する計画を報告した。

涇原・青嶺の戦い

  • 秋七月、夏は涇原に侵入し隆德砦・九羊谷付近を掠めたが、折可適らの反撃で退いた。
  • 熙河の平西砦でも熟戸が掠奪された。
  • 八月、蕃部の密告を受け宋の各路が同時に討伐に出、鄜延将苗履らが青嶺で監軍嵬名済を大敗させ五百余人を殺し牛羊を多数奪った。

平夏城をめぐる梁氏親征の潰走

  • 冬十月、梁氏は自ら大軍を率い平夏城を攻めたが、十三日攻めても落とせず、大風で攻城車が破損し軍は潰走した。
  • 御史中丞仁多楚清が一族四十余人を率い財宝を携えて宋に内降した。

遼への援兵要請継続と涇原侵攻

  • 十一月、梁氏は平夏城包囲の際に諸方の守りを固めたが、熙河・鄜延の反撃で総崩れとなり、遼に再び援兵を求めた。
  • 潜行した部隊が涇原の乾興・天聖等砦を襲ったが、援軍の到来を聞き大雪の中を撤退し多くの人馬が凍死した。

阿埋らの捕縛と天都山放棄

  • 十二月、統軍嵬名阿埋・監軍妹勒都逋が再び平夏城を窺ったが、章楶の密命を受けた郭成・折可適の急襲を受け捕えられ、余衆は天都山を棄てて潰走した。
  • 鈐轄呉名革が弟名山や一族と共に牌印を携え内投した。
  • 月が東井を犯し、太史は兵の喪失を占ったが梁氏は顧みなかった。