西夏書事卷八 宋眞宗(契丹統和二十二年) 景德元年 1004年

保吉の死と徳明の継承

  • 春正月、保吉が没した。保吉は自らの勢力が孤立していることを悟り、徳明に「宋への内属を願い出続けよ、たとえ多くの上表を重ねても許されるまで止めるな」と遺言し、張浦らにも後事を託して没した。享年四十一。

史論

  • 継遷(保吉)は生まれつき英気にあふれ剽悍であった。継捧の入朝当初は兄への恨みから距離を置いていたが、詔使が一族を京師へ移送する段になって雄才を発揮し、羌戎を糾合し契丹と結んで関右を震撼させた。霊武を制し西涼を得て五州を回復し、諸族を服させたが、結局は暴戻ゆえに速やかに滅び、驕慢が禍して天討ではなく流れ矢に斃れた。「佳兵は不祥」との言葉通りである。とはいえ、夏綏の失陥と流浪の窮地から万里の基業を興したことは「志ある者は事竟に成る」の一例と言えよう。

徳明の即位と初期の施策

  • 子の徳明が跡を継いだ。徳明は保吉の妻野利氏の子で、深沈として器量があり権謀に長けた。時に二十三歳、柩前で定難軍留後を称し、張浦らを要職に任じた。
  • 二月、契丹に哀を告げた。
  • 三月、麟府の兵が神堆を襲ったが失敗した。真宗は保吉の死を機に攻略を促したが、成果は上がらなかった。
  • 初めて鄜延に使者を遣わした。徳明は「未葬のため表章を出しがたい」と応じ、服喪明けを待つよう求めた。
  • 夏四月、夏州の蕃部指揮使都尾が洪徳砦へ投降した。知鎮戎軍曹瑋は「徳明が幼弱な今こそ攻略の好機」と進言したが、真宗は懐柔策を選び招撫の詔を発した。
  • 五月、子の元昊が生まれた。母は衛慕氏。誕生時の逸話が伝わる。
  • 涼州で乱が起き、討伐の兵を出したが克てなかった。潘羅支が防いだ。
  • 趙保忠が死んだ。晩年は不遇のうちに過ごし、病没して威塞軍節度使を追贈された。
  • 六月、者龍族を攻める兵を発し、朔方節度使潘羅支を殺した。保吉の残党迷般らが徳明に働きかけ、羅支を陣中で謀殺させた。羅支は死後、武威郡王を追贈された。
  • 涼州を再び取った。羅支の死後の混乱に乗じ、徳明は西涼を攻略した。
  • 秋七月、保吉を賀蘭山に葬った。
  • 八月、万子軍主が永寧砦を侵したが、曹瑋らに撃退された。
  • 九月、契丹へ弔祭の謝礼を送った。
  • 冬十月、銀州の属蕃が麟州を侵した。
  • 十二月、孔目官何憲が邠州に投降した。憲は潘羅支を殺さぬよう諫めたが容れられず、朝廷に投じた。