西夏書事卷七 宋眞宗(契丹統和二十一年) 咸平六年 1003年

西平建都と西涼府攻略

  • 春正月、保吉が西平に都を建てた。弟の継瑗は先祖の地である銀・夏を離れることに反対したが、保吉は西平の地勢の要害を説き宗廟・官衙を置いて遷都した。
  • 綏・宥の諸州の地を全て回復した。宋は張崇貴・王渉を介して和議を結び定難軍州地を割譲した。祖先を紅石峡に葬った。
  • 二月、𨫼子山に駐屯し、再び六谷を誘ったが首領潘羅支は応じなかった。
  • 潘羅支が西平府攻略を謀った。三月、羅支は兵を請うたが、使者の帰路で告勅を奪われた。
  • 牛羊・蘇家等族が夏州を襲い、族帳二百人が殺された。
  • 吐蕃の者龍族が潘羅支と共に夏州を攻めたが撃退された。
  • 銀・夏・宥の三州が飢饉となった。夏四月、民を河外の五城へ移した。
  • 環州を攻め洪徳砦を包囲したが、蕃官慶香らの防戦により大敗した。
  • 白馬族を攻め破った。
  • 五月、浦洛河に兵を集めた。環慶の張凝が多数の蕃族を降した勢いを受け、保吉は子の阿𠼪と共に浦洛河に駐屯し守りを固めた。
  • 六月、東関鎮に駐屯し河東を掠めた。隴山西の延家族らが内附し西夏討伐への協力を申し出た。
  • 秋八月、麟州を攻めたが屈野河で敗れた。八族都校明義の伏兵により大敗し、以後麟・府を侵さなくなった。
  • 九月、夏州の教練使安晏が内附した。
  • 冬十月、西涼府を襲い破り、知府丁惟清を殺し、府を州と改めた。西涼を油断させるため事前に和親を装っていた。
  • 西涼からの帰路、石門川で戦い敗績した。鎮戎軍知軍曹瑋の伏兵に敗れ、掠奪品を全て棄てて逃げた。
  • 夏州の蕃官劉賛・時乂が内附した。
  • 十一月、井・鬼の間に彗星が現れた。
  • 六谷を攻めたが、朔方節度使潘羅支が者龍族らの兵で撃退し、保吉は流れ矢を受けて西平へ逃げ帰った。羅支の偽降を信じて油断したためであった。
  • 十二月、再び浦洛河に兵を集めたが、傷が癒えず環州攻撃には至らなかった。