十七史百將傳卷十 唐李抱真
李抱真、字は太元。唐中期の将で、澤潞節度使として軍制を改革し精兵を養い、田悅・朱滔の討伐に功を挙げた。王武俊を説いて朱滔から離反させたことで知られる。
出自と僕固懐恩の乱への献策
- 李抱真、字は太元、沈慮で決断力があった。兄の抱玉が軍事を任せ、汾州別駕を授けられた。僕固懐恩が反すると陥れられたが、身一つで京師に帰った。代宗は懐恩が回紇を頼み率いる朔方兵が精強であることを憂い、抱真を召して情況を問うと「郭子儀はかつて朔方軍を領し人々の多くがその徳を慕っています。懐恩はその配下に『子儀は朝恩に殺された』と欺いていますが、今、子儀を起用して用いれば懐恩の謀を打ち破ることになり、戦わずして解けるでしょう」と答えた。まもなく懐恩は敗れ、抱真の策の通りであった。
澤潞での軍制改革
- 陳鄭澤潞節度留後に遷った。就任の礼を終えると「百姓の労逸は牧守にかかっています、どうか一州を得て自ら試させてください」と述べ、改めて澤州刺史・兼澤潞節度副使を授けられた。懐州に移り澤潞観察留後を務めること八年に及んだ。抱真は山東に変事があれば澤・潞の兵が争って趨く要衝になると見越し、戦役続きで賦は重く人は困窮し軍伍も衰えていたため、戸三丁ごとに一人を選び徭租を免じ弓矢を与え、閑月には仲間同士で射を習わせ年末に大校(大検閲)を行い、自ら籍を按じて能否に応じ賞罰した。三年ほどでみな精兵となり、その配下から得た兵二万は官から禄を支給せずとも府庫は充実した。「軍はもう用いられる」と述べ、甲を繕い兵を鍛えると澤潞の軍は山東に雄飛し、天下は招義(澤潞軍)の歩兵を諸軍の冠と称した。
田悦・朱滔討伐
- 徳宗の即位後、田悅が反して邢州・臨洺を囲むと、詔により抱真は河東の馬燧と共に神策の兵を合わせて救援し、その将の楊朝光を斬って臨洺・邢州の囲みを解いた。さらに悅と洹水で戦いこれを走らせた。進んで魏を囲むと悅は城下で戦い大敗した。折しも朱滔・王武俊が反して悅を救おうとしたため、抱真は退いて魏を保った。帝が急ぎ奉天に狩(避難)すると、諸将は報せを聞いてみな哭し、それぞれ麾下を率いて屯所に戻った。当時、李希烈は汴を陥れ、李納は鄆で反し、李懷光も相次いで河中で反したが、抱真だけは数州を截然と乱の中に横たえ、その奸謀を離間阻止し、群盗はこれを憚った。
王武俊の説得と朱滔の撃破
- 興元の初め、検校左僕射・同中書門下平章事となり義陽郡王に進んだ。朱滔は幽薊の兵をことごとく回紇と共に貝州を囲み朱泚に応じようとし、李希烈もすでに帝号を僭称して諸叛を臣として統率しようとしたため、衆はやや離心した。天子は罪己詔(自らを罪する詔)を下し群盗を赦した。抱真は客の賈林を遣わし大義をもって王武俊を説き、共に滔を撃つよう勧めさせると武俊は承諾したが内心はなお躊躇していた。抱真は自らその陣営に赴こうとし、軍事を盧元卿に委ねて「私のこの行きは時の安危にかかっている。もし帰れなければ部隊を統率し天子の命を聴くのは君の役目、兵を励まして東に向かい私の恥を雪ぐのもまた君の役目である」と述べた。
- 数騎で直接武俊に会いに行き「泚・希烈は帝号を争い、滔は貝州を攻めている、みな天下に自ら意のままに振る舞おうとする者たちだ。足下は彼らと雄を競い難いのに、九葉の天子を捨てて反虜に臣従するというのか。しかも詔書に罪己とあるのは禹・湯の心である。今、上(帝)は暴露して播越しているのに、公は自ら安んじていられるか」と説いた。抱真は武俊の手を取り涙を流すと武俊も感涙し左右もみな泣いた。抱真は退いて帳中に臥し久しく熟睡した。武俊はこれに感じ疑いを持たなくなり、ますます恭しくなり「この身はすでに公に許した、死をもって従う」と天に誓った。食事を終えると義兄弟の約を結んで別れた。翌日、共に戦って朱滔を経城で大破した。検校司空に進んだ。
人となりと晩年
- 抱真は士を好み世に賢者がいると聞けば必ず交遊を望んだ。わずかな善行でも卑辞厚幣をもって数千里を厭わず招き寄せ、取るに足らぬ人物とわかれば徐々に礼をもって謝絶した。方士を好み丹薬を服して没した。
史論
- 孫子は「上兵は謀を伐つ」というが、抱真が子儀の起用を請い回紇の兵を解いたのがこれに当たる。また「士卒は熟練す」というが、抱真の歩兵が諸軍の冠であったのがこれである。また「親しみてこれを離す」というが、抱真が武俊を説き降して朱滔を敗ったのがこれに当たる。