十七史百將傳卷十 唐郭子儀

郭子儀、字は子儀(華州鄭の人)。安史の乱で朔方節度使として活躍し、両京(長安・洛陽)を回復した唐中興の元勲。魚朝恩・程元振ら宦官の讒言でしばしば兵権を奪われながらも忠誠を貫き、僕固懐恩の乱では単騎で回紇の陣に赴きこれを説いて吐蕃を撃退させた。徳宗より「尚父」の号を賜り、享年八十五。

年表(5件)
  • 天寶十四載安禄山の乱に朔方節度使として出征し、史思明の軍を破る
  • 乾元元年黄河のほとりで賊を破り安守忠を捕らえ、中書令に進む
  • 廣德二年僕固懐恩が吐蕃らを誘って寇すると奉天に屯し、尚書令を拝す
  • 永泰元年涇陽で回紇の軍と対峙し、これを説いて吐蕃を撃退させる
  • 大暦元年周智光の謀反を討伐する詔を受ける

出自と安史の乱緒戦

  • 郭子儀、字は子儀、華州鄭の人。身の丈七尺二寸、武挙で異等となり単于副都護に累遷した。天寶十四載、安禄山が反すると詔により朔方節度使として本軍を率いて東討し、李光弼と共に賊将の史思明の数万を藁城で破った。南進して趙郡を攻め四千を捕らえ常山に還った。思明が数万の兵で軍を尾行し行唐に至ると、子儀は騎五百を選んで交互にこれを挑発した。三日後、賊が退くと乗じて追い、さらに沙河で破って恆陽に趨いて守った。祿山がさらに精兵を思明に加えると、子儀は「彼は増兵を頼み我らを侮っている。侮れば心は固まらず、戦えば必ず勝てる」と述べ、決着のつかぬ戦いの中で一人の歩将を戮して軍に示すと士は死力を尽くして戦い賊を破り、首級二千、俘虜五百、馬もこれに準じて得た。昼は兵を揚げ夜は塁を襲い賊を休ませなかったため賊気は次第に衰えた。
  • そこで光弼・僕固懷恩・渾釋之・陳回光らと嘉山で賊を撃ち首級四万、人馬万を獲た。思明は范陽へ逃げ博陵に走った。これより河北の諸郡は次々と賊将を斬り王師を迎えた。北の范陽を図ろうとした矢先、哥舒翰が敗れ天子が蜀に入り太子が靈武で即位すると、詔により班師した。子儀は光弼と共に歩騎五万を率いて行在に赴き、同中書門下平章事を拝しなお節度を総べた。

両京の回復

  • 肅宗が六軍を大閲し鼓を鳴らして南進すると彭原に至った。宰相の房琯が自ら討賊を請い陳濤に次いだが軍は敗れ士卒はほぼ失われたため、帝はもっぱら朔方軍を根本と頼んだ。まもなく元帥の廣平王に従い蕃・漢の兵十五万で長安を回復した。李嗣業を前軍、元帥を中軍、子儀を副とし、王思禮を後軍として香積寺の北に陣し澧水に臨んで一舎あまりに連なった。賊将の李帰仁が勁騎で薄戦し官軍が乱れかけたが嗣業が長刀で突出し賊数十騎を斬って陣は定まった。回紇の騎兵が賊の背後を繚って挟撃すると首級六万を斬り、賊将の張通儒は夜のうちに陝郡へ逃れた。翌日、王が京師に入ると、老幼が道を挟んで「今日また官軍を見られるとは思わなかった」と呼んだ。王は士を三日休ませて東進した。

相州の敗戦

  • 安慶緒は王師の到来を聞き嚴莊に十万の衆を率いさせ陝に屯させ通儒を助けた。旌旗や鉦鼓は百余里に連なった。師が新店に至ると賊はすでに陣を布いており、軽騎を出すと子儀は二隊で追わせ、また倍にして追わせたが賊営には及ばず戻った。最後に賊が二百騎で軍を掩ったが戦わずに逃げたため、子儀は全軍でこれを追い賊営を貫いた。賊が両翼を張ってこれを包むと官軍は退いたが、嗣業が回紇を率いて背後から撃ち、砂塵が舞い矢が飛ぶ中「回紇が来たぞ」と賊は驚き大敗し、殭屍が道に連なった。嚴莊らは洛陽へ逃げ慶緒を伴って黄河を渡り相州を保った。これにより東都が回復され、河東・河西・河南の州県はことごとく平定された。
  • 入朝すると帝は具軍容で灞上に迎え「国家再興は卿の力である」と労った。乾元元年、河上で賊を破り安守忠を捕らえて献じ、朝廷に還り中書令に進んだ。帝は九節度の師を率いて慶緒を討たせることを命じたが、子儀と光弼は共に元功であり相互に統属させ難いとして魚朝恩を観軍容宣慰使とし、元帥は立てなかった。
  • 子儀は杏園から黄河を渡り衛州を囲んだ。慶緒はその衆を三軍に分けた。戦いに際し子儀は善射の士三千を壁の内に伏せ「私が退く時、賊は必ず塁に乗じてくる、その時声を上げて射よ」と誡めた。戦端が開き偽って遁走すると賊は営に迫り伏兵が発し矢の雨を降らせた。賊は震え驚き王師は勢いを盛り返し首級四万を斬り安慶和を捕らえ衛州を収めた。連営して相州を囲み漳水を引いて城を灌したが二時(数刻)を経ても落ちなかった。城中は糧が尽き人が人を食うほどになった。慶緒は史思明に救援を求め、思明は魏から来て、李光弼の前軍が鄴の南でこれと遭遇し勝敗は相半ばした。子儀は後軍を督したがまだ戦っていなかった。そこへ大風が木を折り天は暗くなり数歩先も見えなくなったため、王師は南に潰走し賊もまた逃げ輜重や兵器が野に満ちた。当時、王師は多勢だが統一を欠き進退を互いに顧み合い功を専らにできなかったため敗れたのである。
  • 魚朝恩は以前から子儀の功をねたんでおり、これを機に讒言したため、帝は李光弼を子儀に代えて朔方兵を領させた。子儀は軍を失っても少しも不満を示さず朝廷への忠誠は変わらなかった。議者は子儀に社稷の功がありながら賊がなお首鼠両端の状況で散地に置くのは適切でないとし、帝もこれを悟った。

天下兵馬副元帥への再任

  • 光弼が邙山で敗れ河陽を失い、河中で乱が起こり李国貞が殺され太原で鄧景山が殺されると、朝廷は両軍が賊と結ぶことを憂い、また若い新将は威望軽く用いがたいとして子儀を天下兵馬副元帥とし汾陽郡王に進封して絳州に屯させた。当時、帝はすでに病篤く群臣もほとんど拝謁できずにいたが、子儀が「老臣、命を受け外で死のうとしています。陛下にお目にかからねば目を瞑れません」と請うと、帝は臥室に引き入れ「河東の事は一切卿に委ねる」と述べ、子儀は嗚咽して涙を流した。屯所に至ると首悪数十人を誅し、太原でも辛雲京が景山を殺した者を処罰した。

代宗即位後の讒言と再度の忠誠

  • 代宗が即位すると、程元振は自らに帝への功があると称し宿将が制しがたいことを忌み、あの手この手で陥れ、子儀を副元帥から罷めさせた。子儀は讒言が成ることを恐れ、肅宗から賜った詔勅千余篇をことごとく集めて上奏し自ら潔白を明かした。詔には「朕は不徳のため大臣に憂いを与えた、深く恥じ入る。今後、公は疑いを持たれるな」とあった。

僕固懐恩の乱と涇陽の対峙

  • 廣德二年、僕固懐恩が吐蕃・回紇・党項ら数十万を誘って寇したため朝廷は大いに恐れ、子儀に奉天に屯するよう詔した。帝が対策を問うと「彼には何もできないでしょう。懐恩はもと臣の偏将、剽悍果敢ではありますが士心を得ていません。今、乱を為せるのは望郷の思いの人々を脅して連れて来ているためであり、彼らはみな臣のかつての部下、恩信で結んできた者たちです、忍んで刃を向けられましょうか」と答えた。帝は「よし」と述べた。虜が邠州に寇し先駆けが奉天に至ると諸将は撃つことを請うたが、子儀は「客軍は深く入り速戦を利とする。彼の下は本より我に恩義を感じているので、緩めれば自ら離反するだろう」と述べ「戦を口にする者は斬る」と令し堅く守ると賊は果たして逃げた。子儀は尚書令を拝した。
  • 永泰元年、懐恩は吐蕃・回紇・党項・羌・渾・奴剌ら三十万を説き涇・邠を掠め鳳翔を蹂躙し醴泉・奉天に入ったため、京師は大いに震えた。帝は李忠臣を渭橋に、李光弼を雲陽に、馬璘・郝廷玉を便橋に、駱奉先・李日越を厔盩に、李抱玉を鳳翔に、周智光を同州に、杜冕を坊州に屯させ、天子自ら宛中に屯した。急ぎ子儀を涇陽に屯させたがその軍はわずか一万であった。到着した時にはすでに虜騎に囲まれており、李国臣・高升・魏楚玉・陳回光・朱元琮をそれぞれ一面に当たらせ、自らは鎧騎二千を率いて陣中を出入りした。回紇が「あれは誰か」と怪しんで問うと「郭令公です」と報じられ、驚いて「令公はご存命か。懐恩は天可汗が世を棄て令公も逝去し中国に主がないと言っていたので我らはこれに従って来たのだ。令公が存命なら天可汗も存命なのか」と問うた。「天子は万寿です」と答えると回紇は「彼は我らを欺いたのか」と悟った。
  • 子儀は虜に「かつて回紇は万里を越えて大憝を討ち二京の回復を助けた、我らは休戚を共にしてきた。今、旧好を棄て叛臣を助けるとは何と愚かなことか。彼が主君を背き親を棄てたことと、回紇に何の関わりがあろうか」と諭させた。回紇は「もとより公が亡くなったと聞いていたが、そうでないなら、なぜこのような事態になったのか。今、実に存命なら会わせてもらえるか」と述べた。子儀が自ら出向こうとすると左右は「戎狄は野心があり信じられません」と諫めたが、子儀は「虜衆は我らの数十倍、今は力で敵わない、誠意を示すのみだ」と述べた。左右が騎五百を伴わせようとしても聞かず、「令公が来られた」と伝えさせるだけで、虜はみな弓を引き満ちて待つ中、子儀は数十騎だけで出て兜を脱ぎ大酋に「諸君と共に艱難を経て久しいのに、なぜ忍んで忠義を忘れこのような事態に至ったのか」と述べた。回紇は兵を捨て馬を下りて拝し「まさに我らの父だ」と述べた。子儀は共に酒を飲み錦彩を贈り旧交のように誓い直し、さらに「吐蕃はもと我らの舅甥の国、義理もなく攻めて来たのは親を棄てるものだ。馬牛が数百里に満ちている、公らがもし戈を逆さにして乗じれば、俯いて芥を拾うほど容易であろう。これは天の賜物、逃してはならない。しかも成功して利を得れば我と好みを継ぐことになる、両者にとって善いことではないか」と述べた。折しも懐恩が急死し群虜は統率を失ったため、この提案を承諾した。吐蕃はこれを疑い夜のうちに引き上げた。子儀は将の白元光を遣わし回紇の衆と共に追撃させ、大軍もこれに続き、靈武の西原で吐蕃十万を破った。

周智光の乱平定と対回紇・対吐蕃策

  • 大暦元年、赤心節度使の周智光が謀反すると、帝は間道で蠟書を子儀に賜り軍を率いて討たせた。同・華の将吏は軍が起こったと聞くと智光を殺しその首を闕下に送った。
  • 回紇の赤心が馬一万匹の売却を請うたが、有司は財が乏しいとして千匹に留めた。子儀は「回紇には大功がある、その意に応えるべきだ。中原に馬が必要ならば臣は一年分の俸給を馬の代金の助けとして請う」と述べたが、詔は許さず、人々はその忠を称えた。
  • 帝がかつて吐蕃の強さについて語り慷慨して涙を流したことがあり、子儀は退いて上書し「朔方は国の北門、西は犬戎を防ぎ北は獫狁を虞る、五城は互いに三千里を隔てています。開元・天寶の間、戦士十万・馬三万匹でかろうじて一隅を支えていました。先帝が靈武で即位して以来、戦士は陛下の征討に従い寧日がありませんでした。近くは懐恩の乱で兵は傷つき損耗し三分の二を失い、天寶の頃に比べれば十分の一に過ぎません。今、吐蕃は河・隴を併呑し羌・渾の衆を交え、年ごとに深く畿郊に入り、その勢いは十倍以上に及びます、これと勝敗を争うのは容易ではありません。先般虜が来た際は四節度を称し将を分けること万人、人ごとに数馬を有していました。臣が統べる士はその四分の一にも及ばず、馬は百分の二にも及ばず、外も内も畏れる状況で、どうして安んじられましょうか。臣が思うに陛下が勝ちを制するには力が足りないのではなく訓練が行き届かず進退が一致していないためです。時が長引けば師は老い、志は広くとも勢いは分散します。願わくば諸道から精卒五万を選び北辺に列屯させれば、勝ちを制することができましょう。ひそかに思うに河南・河北・江淮の大鎮は数万、小鎮は数千の兵を抱え廩給を尽くしながら選抜されていません。臣はこれを関中に召し歩隊を編制し金鼓を示せば、攻めれば必ず破れ守れば必ず全うできる、長久の策となりましょう」と述べた。

尚父の称号と薨去

  • 徳宗が即位すると「尚父」の号を賜った。薨じた、享年八十五。子儀は主君に事えるに誠を尽くし部下を治めるに寛恕をもってし、賞罰は必ず信であった。幸臣の程元振・魚朝恩の讒毀を受けたが、多事の時にあって兵を握り外に処しながらも詔旨が届けば即日出発し少しも顧望しなかったため讒間は行われなかった。
  • 靈州で吐蕃を破った際、朝恩は人を遣わして子儀の父の墓を暴かせたが盗掘は果たせなかった。子儀が涇陽から来朝すると中外は変事があるのではと懼れたが、子儀は帝に見えると号泣して「臣は久しく兵を主り、士が人の墓を荒らすことを禁じられませんでした。人が今、先人の墓を暴いたのは天譴であって人の患いではありません」と述べた。朝恂がかつて子儀と会食を約した際、元載が人を遣わし軍容(朝恩)が公に不利を図っていると告げたが、その配下が甲を着けて従いたいと願うのを子儀は聞かず、ただ家僮十数人だけを伴った。朝恩が「なぜ車騎がこれほど少ないのか」と問うと聞いた話を告げ、朝恩は泣いて「公が長者でなければ疑われずにいられなかっただろう」と述べた。
  • 田承嗣は傲慢不遜であったが、子儀がかつて使者を魏に遣わすと承嗣は西方に向かって拝し、自らの膝を指して使者に「この膝は久しく人に屈したことがなかったが、今、公のために拝礼した」と述べた。麾下の宿将数十人はみな王侯に等しい重臣であったが、子儀が指図すれば部曲のように従った。幕府の六十余人は後にみな将相・顕官となり、その人材登用の巧みさはこの通りであった。
  • 李光弼と斉名しながら寛厚で人望を得ることはそれ以上であった。代宗は名を呼ばず「大臣」と呼んだ。その身をもって天下の安危を担うこと二十年に及んだ。

史論

  • 孫子は「逸してこれを労す」というが、子儀が兵を揚げ塁を襲って賊を休ませなかったのがこれに当たる。また「利をもってこれを動かし、卒をもってこれを待つ」というが、子儀が伏卒を壁内に置いて偽って遁走したのがこれである。また「三軍すでに疑いかつ惑えば、諸侯の難至る」というが、子儀と光弼が功を専らにできず敗れたのがこれに当たる。また「強くしてこれを避く」というが、子儀が賊は速戦を利とすると見て堅壁で待ったのがこれである。また「敵は多しといえども闘わせざるべし」というが、子儀が至誠を示し回紇が感服したのがこれに当たる。