十七史百將傳卷十 唐李光弼

出自と登用

  • 李光弼、營州柳城の人。厳毅で沈着、大略があり騎射に優れた。河西の王忠嗣府兵馬使に累遷した。忠嗣は彼を厚遇し、宿将も及ばぬほどであった。忠嗣はかつて「後日わが兵を得るのは光弼だろう」と述べた。朔方節度使の安思順はその才を愛し娘を娶らせようとしたが、光弼は病と称して辞去した。隴西節度使の哥舒翰はその節操を異とし表を上げて長安に還らせた。
  • 安禄山が反すると、郭子儀がその才を薦め、まもなく郡魏太守・河北採訪使に加えられた。

常山救援

  • 光弼は朔方の兵五千を率いて土門を出て東に常山を救い、真定に次いだ。常山の団結子弟は賊将の安思義を捕らえて降った。顏杲卿が死んでから郡は戦区となり露屍が野を覆っていたので、光弼は酒を注ぎ哭してその弔いを行い、賊に幽閉されていた者を出して厚くその家を恤んだ。
  • 賊将の史思明・李立節・蔡希德が饒陽を攻めた際、光弼は捕らえた安思義を殺さず計を問うと「今の我が軍は疲労している、敵に遭えば支えきれない。軍を城内に収め機を見て出るべきだ。虜兵は勢いは鋭いが持久には耐えない」と答えたので、光弼はこれに従い城に拠って待った。翌日、思明の軍二万が城壁に迫ったが、光弼は勁弩五百でこれを射て退け、賊はやや北に陣を移した。光弼はその南に出て滹沱河を挟んで陣した。思明はしばしば苦戦しても近くの援軍を頼み鞍を解いて士を休ませていた。この日、饒陽の賊五千が九門に至ったが、光弼は諜報を得て軽兵をまとめ旗鼓を収め、賊が食事をとる隙を襲ってほぼ殲滅した。思明は恐れて退いた。
  • 光弼は范陽が賊の巣窟であるとしてまずこれを取ろうとしたが、潼関が陥落したため軍を引いて井陘に入った。

太原の守り

  • 肅宗が即位すると詔により兵を靈武に送り、光弼は景城・河間の兵五千を率いて太原に入った。これより先、節度使の王承業は政が弛み誤りが多く、侍御史の崔眾が太原の兵を主って承業を侮っていたことに光弼は不満を抱いていた。この時、詔により眾の兵は光弼に付されたが、眾は驕慢でいつまでも兵権を渡さなかったため光弼は怒りこれを捕らえた。折しも使者が至り眾に御史中丞を拝したが、光弼は「眾に罪がある、すでに捕らえた。今はただ侍御史を斬るのみ。もし使者が詔を宣すれば中丞をも斬る」と述べ、使者は詔を出せずにいた。ついに眾を斬って軍に示すと威は三軍に震えた。
  • 至德二載、思明・希德は高秀岩・牛廷玠を率いて十万の兵で光弼を攻めた。当時、精鋭の兵はことごとく朔方に赴いており麾下の兵は一万に満たなかった。衆議は城を増培(増築)して守るべしとしたが、光弼は「城は四十里に及ぶ、賊が来てそれを修めても徒に我が兵を疲れさせるだけだ」と述べ、民屋を撤して擂石車を作り、車一つを二百人で挽かせると、石の及ぶところ数十人が死し賊の傷は十のうち二に及んだ。思明が飛楼を作り木幔で覆い土山を築いて城に迫らせると、光弼は地下道を穿ってこれを崩した。思明が城下で宴を催させ倡優が台上から天子を指さして罵った際、光弼は隧道から人を出してこれを捕らえた。思明は大いに驚き牙幔を遠くへ移し、軍中はみな地面を見ながら歩くようになった。
  • さらに密かに営の下に溝を掘り軍を沈めようと計り、偽って降を約した。期日になると甲士に城壁を守らせ裨校を出して降を送るふりをさせると思明は大いに喜んだが、まもなく賊数千が塹に沈み、城上で鼓譟すると突騎が乗じて出て万余を斬り俘とした。思明は敗を恐れ退き、希徳を留めて太原を攻めさせたが、光弼は敢死の士を出してこれを撃ち七万級を斬り、希徳は資糧を捨てて遁走した。
  • 初め、賊が至った際、光弼は城の隅に公幄を設けて休息を取り、府門を過ぎても顧みなかった。囲みが解けても三晩を経てから初めて私邸に帰った。

河陽三城の攻防

  • 乾元の初め、入朝すると官吏四品以上に郊迎を命じられ、兼侍中に進み子儀に代わって朔方節度使となった。まもなく天下兵馬副元帥となった。光弼は河東の騎五百で東都に馳せ、夜にその軍に入り、賊がまさに洛陽を窺っているとして虎牢を扼え師を率いて東の河上に出ようとした。檄で兵馬使の張用済を召したが、用済は光弼の厳格さを憚り諸将に兵を留めさせた。用済が単騎で謁見に来ると光弼はこれを斬り、辛京杲を代えて用いた。追って都将の僕固懐恩を召すと懐恩は恐れて先んじて至った。
  • 滑汴節度使の許叔冀が戦に敗れ賊に降ったため、思明は勝ちに乗じて西に向かった。光弼は陣を敦くして徐行し東京に趨き、留守の韋陟に「賊は新たに勝ち鋒を争いがたい。計をもってこれを詘(くじ)くべきだ。しかし洛陽には備糧がなく危うく守り難い、公の計はいかに」と問うた。陟は「陝の兵を増やし公が潼関を保てば持久できましょう」と答えたが、光弼は「両軍が相対する時、尺寸の地も必ず争うもの。今五百里を委ねて関を守れば賊は地を得て勢いをますます張るだろう。それより軍を河陽に移し北に沢・潞を阻めば、勝てば出て、敗れれば守り、表裏相応じ賊は西に進めない。これが猿臂の勢というものだ。朝廷の礼を論ずれば私は公に及ばないが、軍旅の勝敗を論ずれば公は私に及ばない」と述べ、陟は答えられなかった。ついに河南尹に檄して官吏を賊から避難させ、軍に趣戦の備えを督させた。
  • 思明が偃師に至ると光弼は全軍で河陽に趨き、自らは五百騎で殿(しんがり)を務めた。賊の遊騎が石橋に至った際、諸将が「城に沿って北へ行くべきか、石橋を通って進むべきか」と問うと、光弼は「石橋を通って進む」と答えた。甲士は夜に炬を持ちゆっくり進み、部曲は重厚に構え、賊も逼ることができなかった。三城に入ると兵は二万、軍の糧はわずか十日分で兵卒とほぼ同じだけしか残らなかった。賊は光弼を憚り宮闕を犯さず、白馬祠に頓し塹溝を治め月城を築いて守った。賊が攻めると光弼は中潬の西で戦い千級を斬り五千人を捕らえた。
  • 光弼はかつて李抱玉に「将軍は南城を二日守れるか」と問い、抱玉が「期限を過ぎたらどうしますか」と問うと「棄てよ」と答えた。抱玉は承諾し賊に「糧が尽きた、明日には降る」と偽ると賊は喜び兵を収めて待った。抱玉はすでに備えを整えており、そこで戦いを請うた。賊は欺かれたと怒って急攻したが、抱玉は奇兵を出して挟撃し賊将の周摯を退けた。
  • 賊が安太清と合わせ三万で北城を攻めると、光弼は軍を収め城壁に登って望み「彼の軍は鋭いが陣が乱れがましい、憂うるに足りない。正午には破れるだろう」と述べた。出戦しても決着しない中、諸将を召して「彼は強いが破れる、乱れているからだ。乱をもって乱を撃てば功はないだろう」と述べ、「賊陣で最も堅い所はどこか」と問うと「西北隅です」と答えた。郝廷玉を召し「わが麾下でこれを破れ」と命じると廷玉は「私が率いる歩卒に代え騎五百を請う」と述べ、三百を与えられた。次に問うと「東南隅です」と答えたので論惟正を召したが「私は蕃将で歩戦を知りません、鉄騎三百を請う」と言い、二百を与えられた。そして四十頭の馬を出し廷玉らに分け与えた。光弼は大旗を執り「我が旗を望め。麾が緩やかならば便宜を観よ。もし三たび地に着けば諸軍はことごとく入り生死を賭せ、退く者は斬る」と述べた。まもなく城壁から廷玉の軍が進めぬのを見て左右にその首を取りに行かせようとしたが、廷玉は「馬が矢に中った、退いたのではない」と述べ馬を替えさせた。裨将で矛を援えて刺した者や矛が馬を貫いても数人を刺し続けた者、また賊を迎え戦わずに退いた者がいたが、光弼は矛を援えた者に絹五百疋を賜り、戦わなかった者を斬った。光弼が旗を三度麾ると諸軍は争って奮い賊は敗走し、首級一万余、俘虜八千余、馬二千を得、軍資器械は億を数え、周摯を捕らえ安太清は身一つで逃げた。思明はこれを知らず南城を攻め続けていたが、光弼が捕虜を引き出して見せると思明は大いに恐れ塁を築いて拒んだ。
  • この戦いに臨む前、光弼は靴に刃を仕込み「戦は危事、私は三公の位にある、賊に辱められることはできない。万一勝てなければ自刎して天子に謝すのみ」と述べていたが、勝利を得ると西に向かい拝舞し、三軍は皆感動した。太清が懐州を襲うとこれを守った。上元元年、太尉・中書令に加えられた。

河陽再戦と二将の降伏

  • 進んで懐州を囲むと思明が救援に来たが光弼は再びこれを逐った。思明が河清に兵を屯し黄河を渡って糧道を絶つと言いふらすと、光弼は野水渡に営を構え、夕方には軍を戻し牙将の雍希顥に「賊将の高暉・李日越は万人に匹敵する猛者だ。賊は必ずお前に襲わせようとするだろう。ここに留まり賊が来ても戦うな、もし降るならば共に連れて来い」と命じた。左右はこの命令をひそかに怪しんだ。この日、思明は果たして日越に「光弼は野に陣を敷いている、鉄騎五百で夜これを取れ、できなければ帰るな」と命じた。日越が壘に至り「太尉はいるか」と問うと「去った」と答え、「兵は何人か」「千人」「将は誰か」「雍希顥」と答えられ、日越は配下に「私は命を受けたのにこれでは希顥を得るのみ、帰っても死は免れない」と述べ、ついに降を請うた。希顥は共に光弼のもとへ至り、光弼は厚く遇し右金吾大将軍を表授した。高暉もこれを聞いて降った。
  • ある人が「公はどうしてこう易々と二将を降せたのか」と問うと、光弼は「思明は再び敗れ野戦できなかったのを恨んでいた。我が野に陣を構えたと聞けばこれを侮り、将に襲わせ必ず死をもって成せと命じたはずだ。希顥には手柄がなく功にならない。日越は死を恐れているのだから降らずにいられようか。高暉は日越より才が優れ、降者が厚遇されているのを見れば二心ある者もどうして奮わずにいられよう」と答えた。
  • 諸軍が丹水を決して懐州を灌したが落ちなかった。光弼は郝廷玉に地道から城中に入らせその軍号を得させ、城壁に登って大呼させると王師は城に乗じ、太清を捕らえて京師に送り太廟に献じた。

邙山の敗戦

  • 思明は諜者に賊将士がみな北人で望郷の念があると宣言させた。魚朝恩はこれを真に受け賊は滅ぼせると上奏した。光弼は詔に対し賊はなお鋭く軽々しく動かせないと固く述べたが、僕固懐恩は光弼の功をねたみ密かに朝恩を助けて掃討策を進言した。使者の督戦により光弼はやむなく李抱玉に河陽を守らせ、北邙に出陣した。光弼は山に沿って陣を布こうとしたが、懐恩は「我らは騎兵を用いる、険しい地は不利、平原に陣すべきだ」と主張した。光弼は「険を頼めば勝つこともあれば敗れることもある。平原に陣して敗れれば全滅する。しかも賊が我らに死を賭して向かってくるなら険に拠るに如くはない」と説いたが懐恩は従わなかった。賊は高原に拠り長戟七百を並べ壮士に刀を執らせ物を捨てて偽り逃げると、懐恩の軍は争って剽掠に走り伏兵が発し官軍は大潰した。懐州は再び陥り、光弼は河を渡って聞喜に保った。抱玉も兵が少なく河陽を棄てた。
  • 光弼は罪を請うたが、帝は懐恩が令に違い軍を覆したとして寛大な詔を出し光弼を入朝させた。まもなく再び太尉・兼侍中を拝した。

晩年

  • 寶應元年、臨淮郡王に進封され、鉄券を賜り名は太廟に蔵され、姿は凌煙閣に描かれた。北邙の敗戦を魚朝恩は自らの策の誤りを恥じ、光弼を骨身に徹して忌み、程元振もまた深く憎んだ。二人が権を握り日々光弼を陥れようと謀った。吐蕃が京師に寇し代宗が入援を詔した際、光弼は禍を畏れて出発を引き延ばした。帝が陝に幸した際もなお重きを置き、たびたびその母を存問して疑いを解こうとした。帝が長安に還ると東都留守に任じその去就を観察させたが、光弼は詔書がいつまでも至らないとして徐州に帰り租賦を収めるのを口実にした。帝は郭子儀に命じてその母を河中から京師へ迎えさせた。光弼は病篤くなると将吏が後事を問うたが「私は軍中に淹留し母を養えなかった、不孝の子と言うほかない、他に何を言おうか」と答え、残った絹布を部将に分け与えて没した。部将はその布で光弼のために喪を行い、号哭して弔問し合った。帝は使者を遣わしその母を弔恤した。
  • 光弼は用兵に際し謀を定めてから戦い、少数で多数を覆すことができた。師の訓練は厳整で天下はその威名に服し、軍中で指図すれば諸将は仰ぎ見ることさえできなかった。かつて郭子儀と斉名し世に「李郭」と称され、戦功では中興第一に推された。子儀に代わって朔方を領した際も営塁・士卒・麾幟に手を加えず、光弼が一たび号令すれば軍の気色は一段と精明になったという。

史論

  • 孫子は「その無備を攻む」というが、光弼が敵の食事の隙を伺って撃ったのがこれに当たる。また「辞卑くして備えを益す者は進むなり」というが、光弼が密かに溝を掘りつつ降を偽って約したのがこれである。また「我が得れば則ち利あり、彼の得るも亦利あり、これを争地と為す」というが、光弼が河陽に軍を移して賊を西に進ませなかったのがこれに当たる。また「三軍も気を奪うべし」というが、光弼が最も堅い陣を先に攻めて太清を敗走させたのがこれである。また「形に因りて勝を衆に措くも、衆は知る能わず」というが、光弼が賊の襲撃を見抜いて二将を降したのがこれに当たる。