十七史百將傳卷九 唐·李嗣業

出自と陌刀の武勇

  • 李嗣業、字は嗣業、京兆高陵の人。身の丈七尺、膂力は人に抜きん出ていた。開元中、安西都護の来曜に従い十姓の蘇祿を討ち先登して虜を捕らえ、功を重ねて昭武校尉となった。応募して安西に赴くと、軍中で初めて陌刀を用い、嗣業はことにこれに優れ、戦うたびに先鋒となり向かうところ敵を摧いた。

勃律・大食との戦い

  • 高仙芝が勃律を討った際、嗣業を陌刀将に挙げた。吐蕃兵十万が娑勒城に屯し山に拠り水に瀕して木を連ねた郛を築いて王師を扼していたが、仙芝は密かに夜に信図河を渡り「正午までに賊を破らねば全員死罪」と令した。嗣業は歩卒を率いて山に登り四方から石を落として賊を撃ち、大旗を立てて険を先駆けすると諸将もこれに従った。虜は軍の到来を予期せず大潰し、崖谷に投じて死ぬ者は十のうち七、八に及んだ。鼓を鳴らして勃律まで進み、その主を捕らえて平定した。虜は嗣業を「神通大将」と称した。
  • 大食が兵を運んで四鎮を攻めた際、仙芝は兵二万を率いて深く入ったが大食に敗れ残卒は数千となった。事態が急を告げると、嗣業は「将軍が敵地深くに入り後援もすでに絶えている今、我らが将軍と共に前で死ねば、誰が朝廷に報せるのでしょうか。白石嶺を守って後計とするに如くはありません」と説いた。仙芝は「私は今、余燼を収め明日再び戦うつもりだ」と述べたが、嗣業は「事は既に去りました、坐して塩漬けにされるのを待つべきではありません」と言い、直ちに馳せて白石を守り、仙芝はこれによって帰還できた。嗣業の功が上奏され右金吾大将軍に進み、疏勒鎮使として留められた。城の一隅は幾度築いても崩れたが、嗣業が祈ると白龍が現れ、その地に祠を建てて祭ると城は崩れなくなった。漢の耿恭の故井も久しく涸れていたが祈ると泉が再び出た。かつて勃律を討った折、蔥嶺を通ろうとすると大石が隘路を塞いでいたが足で蹴ると深い谷に落ちたといい、識者はその至誠が感応したものと言った。

安史の乱での奮戦

  • 安禄山が反すると肅宗はこれを追討し、詔が至るとすぐに軍を発し、諸将と臂を割って「通過する郡県で秋毫も犯すべからず」と盟った。鳳翔に至って上謁すると、帝は喜んで「今日卿が来てくれたのは数万の軍勢に勝る、事の成否は卿らにかかっている」と述べた。詔により郭子儀・僕固懐恩と掎角を為すことになった。常に先鋒として大きな棓(棍棒)で撃ち合い、賊はこれに遇うとたいてい崩れた。四鎮・伊西・北庭行軍兵馬使に進んだ。
  • 広平王が長安を回復した際、嗣業は前軍を統率し香積寺の北に陣した。賊将の李帰仁が精騎で薄戦し王師が矢を放ってこれを追ったが、営に及ばぬうちに賊が大挙して出て追撃した騎兵を蹂躙し返し、王師は陣を乱した。嗣業は郭子儀に「今日万死を賭してでも一生を得なければ全軍が滅びる」と述べ、肌を露わにして長刀を持ち陣前に大呼して出て数十人を斬り、陣は再び整った。歩卒二千が陌刀・長柯斧で堵を作って進むと向かうところ敵なく、帰仁は伏兵を営の左に隠して軍勢を窺っていたが、王が回紇の鋭兵を分けてその伏兵を撃ち、嗣業も賊の背後から合わせて攻めたため、正午から夕方まで戦い首級六万を斬り、澗壑に落ちて死ぬ者はほぼ半数に及び、賊は東へ走って長安は平定された。
  • 進んで東都を収める戦でも嗣業の戦功は多かった。郭子儀らと相州を囲んだ際、諸軍は疲弊し功を上げられない中、嗣業だけは堅固に戦い奮起し諸軍の冠であった。流れ矢に当たり陣中で臥せっていたが傷が癒えかけたとき金鼓の音を聞き、賊との戦闘を知ると大声を上げ、傷口が破れて数升の血を流して没した。嗣業は忠毅で国を憂い私財を顧みず、宛馬十匹と前後に賜った物をすべて官に納め軍を助けたという。

史論

  • 孫子は「将は安危の主なり」というが、嗣業が至ると肅宗が数万の軍勢に勝ると述べたのがこれに当たる。また「死してなお得ざるはなし」というが、嗣業が刀を持ち堵を作って進み帰仁を敗ったのがこれである。