十七史百將傳卷九 唐·張仁願

出自と孫承景弾劾

  • 張仁願、華州下邽の人。本名は仁亶といったが睿宗の諱に音が近いためこれを避けた。文武の才があり、武后の時代、殿中侍御史に累遷した。万歳通天中、監察御史の孫承景は清辺軍を監し、戦から還ると自ら先鋒として矢石に当たった様子を絵図に描いた。武后は「御史がこれほどのことをできるとは」と感嘆し右粛政台中丞に抜擢し、仁願に詔してその麾下の功を叙させた。仁願がまず承景に破敵の詳細を問うと承景は実際に行軍しておらず問われたことにことごとく窮した。仁願は承景が虚偽の敵首級を並べ主上を欺いたことを弾劾した。承景は崇仁令に貶され、仁願が代わって中丞となり、検校幽州都督となった。突厥の黙啜が趙・定に寇し塞を出て還る際、仁願は兵でこれを迎撃し賊は退いた。

朔方の勝利

  • 并州都督長史に遷った。朔方軍総管の沙吒忠義が突厥に敗れると、詔により仁願は御史大夫を摂して代わった。到着した時にはすでに賊は去っていたが兵を率いて追撃し夜にその営を掩って破った。

受降三城の築造

  • もとより朔方軍と突厥は黄河を境としていた。北岸に払雲祠があり、突厥は境を犯すたびに必ずまずこの祠に詣で祈ってから兵を料り渡って南下していた。当時、黙啜が兵をことごとく西の突騎施に向けていたので、仁願はこの虚に乗じ漠南の地を取ることを請い、河北に三受降城を築いて虜の南寇の路を絶とうとした。唐休璟は「両漢以来みな黄河を守って北を防いできた、今、虜の腹中に城を築けば、結局は虜に奪われるだけだ」と反対したが、仁願は強く請い、中宗はこれに従った。
  • 歳満の兵を留めるよう表を上げたが、咸陽の兵二百人が逃げ帰ったため、仁願はこれを捕らえ城下で残らず斬った。軍中は震え上がり、役夫はみな力を尽くし、六旬で三城が完成した。払雲を中城とし南は朔方に直し、西城は南に霊武に直し、東城は南に榆林に直し、三塁は互いに四百余里を隔て、その北はみな大磧であった。三百里余りの地を開拓し、さらに牛頭・朝那山の北に烽候千八百所を置いた。これより突厥は山を越えて牧馬することができなくなり、朔方は寇を受けなくなり、歳々の費えは億単位で減り、鎮兵も数万減らすことができた。
  • 三城を築いた当初、壅門・曲敵・戦格(防御用の構造物)を設けなかった。ある人が「辺城に守備が無くてよいのか」と問うと、仁願は「兵は攻取を貴び退守を賤しむ。寇が来れば力を合わせて出て拒むべきで、城を振り返って見る者があれば斬る。守備などいらぬ、退く心を持たせぬためだ」と答えた。後任の常元楷が総管に代わり初めて壅門を築いたが、議者はますます仁願を重んじ元楷を軽んじた。

晩年

  • 景龍二年、左衛大将軍・同中書門下三品を拝し、韓国公に封じられた。朝廷に還り、まもなく没した。仁願は将となって号令が厳格で将吏はみな信服し、辺境を按撫して賞罰は必ず功罪に直ったものであった。後人はこれを慕い受降城に祠を立て、出師のたびに祭った。文武を兼ねた宰相として、当時、李靖・郭元振・唐休璟・仁願が並び称された。

史論

  • 孫子は「敵人をして至らざらしむる者は、これを害するなり」というが、仁願が受降城を築いて虜の南寇路を絶ったのがこれに当たる。また「兵の情は、囲まれれば禦し、已むを得ざれば闕く」というが、仁願が壅門を設けず兵に力を合わせて敵を拒ませたのがこれである。また「賞罰いずれか明らかなるか」というが、仁願の賞罰が必ず功過に直ったのがこれに当たる。