出自と桂州の治績
- 王晙、滄州景城の人。明経に高第で挙げられ、かつて桂州都督となった。州に駐屯する兵は従来衡州・永州から糧を仰いでいたが、晙は初めて羅郛(外郭)を築き、戍卒を罷めて江に堤を築き屯田数千頃を開き、転漕の費えを息ませたので百姓はこれに頼った。
大来谷・武階の戦い
- のち朔方軍副大総管・安北大都護に遷った。吐蕃が精甲十万で臨洮に寇し大来谷に次ぎ、その酋の坌達延が兵をもって続いて進んだ。晙は所部二千を率い臨洮軍と合流し、奇兵七百を選んで胡服に変え夜襲した。賊まで五里の地点で「前方で敵に遭えば士は大声を上げよ、鼓角がこれに応じる」と令した。賊は驚き伏兵が周りにいると疑い、自ら相い戦って死ぬ者が万を数えた。まもなく薛訥が武階に至り大来から二十里の地点にいたが、賊は両軍の間に陣を敷き一舎あまりに連なっていた。晙は薛訥を迎えに行き、夜、壮士に枚を銜ませ突撃させると虜は驚いて退き、洮水まで追撃してこれを破り、獲た俘虜は山積みとなった。
突厥降人処遇をめぐる献策
- のち突厥の黙啜が抜曳固に殺されるとその配下の多くが降り、河曲に分置された。まもなく小殺(毘伽可汗)が跡を継ぐと降者は次第に叛き去った。晙は上言し「突厥は先に国が乱れたため塞に款を通じました。今、河曲に移し置いたことで内から辺鄙を伺わせることになり、久しければ必ず患いとなります。虜がもし南に牧すれば降帳は必ずこれと連衡して呼応し、内外に敵を抱えることになれば、韓信・彭越・孫子・呉子のような者がいても功を為すことはできません。どうか農閑期に朔方軍を大いに陳兵させ、酋豪を召して禍福を告げ、金繒を与え、南方の麋鹿魚米の豊かさを説いて淮右・河南に移し置くことを請います。二十年もしないうちに諸夏に次第に馴染み、これを兵に充てれば皆勁卒となりましょう。もし降狄を南方に置けないというなら、かつて高麗の旧俘は沙漠の西に置かれ、城傍の編夷は青・徐の地に住まわせたのに、なぜ降胡だけそれができないと言えましょうか。また議者は必ず『先例では河曲に置き先日はすでに安寧だった、今さら特別視することはない』と言うでしょう。しかし先に頡利が破亡した際は辺鄙が安定していたからこそ降戸は久しく安んじられたのです。今は虜がまだ滅んでおらず、この降人はみなその親族なので、決して先年と同じではありません。私は三つの策で考えます。その部落をことごとく内地に置けば精兵の実を得て黠虜の患いを閉じる、これが上策です。亭障の下に蕃・華を雑居させ屯戍を広げ備えとするのは費えが甚だしく人を苦しめる下策です。朔塞にそのまま置けば禍の萌しを助長するばかりで、これは無策です。しからずんば河が凍る頃には必ず変事が起こるでしょう」と述べた。上疏の返答を待たぬうちに虜はすでに叛き、詔により晙は并州の兵を率いて河を渡り討伐した。
討伐の成就と処世
- 晙が間道を進み甲を巻き幕を捨てて山谷に向かった際、夜に雪に遭い期を失うことを恐れ、神に誓って「私が主君に忠を尽くさず罪なき者を討つなら、天罰は私一身に受けよう、士衆に罪はない。心が誠に忠であれば天はこれを監るであろう、雪を止め風を反せば功を成す証としてほしい」と述べたところ、まもなく晴れ渡った。当時、叛胡は二道に分かれて逃げ、晙は東道からこれを追い二千級を獲た。功により左散騎常侍・朔方行軍大総管に遷った。
- 蘭也胡の康待賓が長泉に拠って反し六州を陥れると、詔により郭知運と晙が共にこれを討ち平定した。玄宗が宮人を知運らに賜った際、晙だけは受け取らず「臣が君に仕えるのは子が父に仕えるようなもの、どうして近侍していた宮女を臣子が受けられましょうか」と述べ辞退を誓い聞き入れられた。当初、晙は「朔方の兵力には余裕がある、知運を退け自分ひとりで防衛にあたりたい」と上奏したが返答がないうちに知運が到着し、そのため両者は不和となった。晙が降した者たちを知運が擅に攻撃したため、賊は晙が自分を裏切ったと疑いまた叛いた。
- 晙は没し、尚書左丞相を追贈された。晙は気概と容貌が偉特で、当時「独虎相」と呼ばれた。節義に感じ慕う心があり古人の風があった。その部下への統率は厳一で、吏人は畏れ慕った。
史論
- 孫子は「動くこと雷震の如し」というが、晙が士卒に大声を上げさせ鼓角を応じさせて敵を驚かし潰したのがこれに当たる。また「卒を善くしてこれを養う」というが、晙が降虜を用いれば勁卒となると述べたのがこれである。また「上下同欲の者は勝つ」というが、晙と知運が不和で賊が再び叛いたのがこれに当たる。