十七史百將傳卷九 唐李靖
李靖(字は薬師、京兆三原の人)。隋末、韓擒虎・楊素にその将才を見込まれ、唐の高祖に仕えた。蕭銑・輔公祏を討って江南を平定し、突厥の頡利可汗を破って北辺の脅威を除き、吐谷渾も平定した。唐初随一の名将として太宗に重用され、衛国公に封じられた。享年七十九。
出自と高祖への帰順
- 李靖、字は薬師、京兆三原の人。姿貌は魁秀で書史に通じていた。かつて親しい者に「男子たるもの、遭遇するところは功名によって富貴を取るべきである、どうして章句の儒に甘んじていられようか」と語った。その舅の韓擒虎は常に兵を論じるたびに嘆じ「孫呉を論じ合える者はこの人以外にいるだろうか」と言った。隋の吏部尚書牛弘はこれを見て「王佐の才である」と言い、左僕射楊素はその床を撫でて「卿はいずれこの座に坐すだろう」と語った。
- 大業末、馬邑丞であった際、高祖が突厥を撃つのを見て靖は非常の志があると察し、自ら囚われの身となって急変を上急しようとし江都へ送られる途中長安に至ったが道が塞がれた。高祖はすでに京師を平定しており靖を斬ろうとしたが、靖は「公は天下のために暴乱を除くべく兵を起こされたのに、大事を成そうとしながら私怨によって義士を殺されるのですか」と呼びかけ、秦王もまた助命を請うたためこれを許された。
蕭銑討伐
- 蕭銑が江陵に拠ると、詔により靖はこれを安輯した。峡州に至ると銑の兵に阻まれ進めなかった。帝は逗留していると考え詔で都督許紹に靖を斬らせようとしたが、紹が請うて免れた。開州の蛮冉肇則が夔州を寇し趙郡王孝恭が戦って利あらざると、靖は八百の兵を率いてその屯を破り、要害を扼して伏を設け肇則を斬り五千を捕虜とした。帝は左右に「使功は使過に及ばずというが、靖はまさにその通りだ」と語り、手ずから勅して「既往は咎めない、先の事は私もすでに久しく忘れている」と労った。靖はそこで銑を図る十策を陳べた。詔により靖は行軍総管に拝され、あわせて孝恭の行軍長史を摂させ、軍政は一切これに委ねられた。
- 武徳四年、夔州で大いに兵を閲した。時に秋の長雨で川瀬は荒れており、銑は靖が急には下れないと考え備えを設けなかった。諸将もまた江が平らかになってから進むことを願ったが、靖は「兵とは機に応じるもの、速さを神とする。今士が集まったばかりで銑はまだ及んで知らない、もし水に乗じて塁に迫れば、これは震雷が耳を塞ぐ間もなく至るようなものだ。たとえ急に兵を召しても私を防ぐ手立ては無い、これは必ず捕らえられる」と述べ、孝恭はこれに従った。
- 舟師が夷陵を叩くと、銑の将文士弘は数万の兵を清江に屯していた。孝恭がこれを撃とうとすると、靖は「不可です。士弘は健将でその下もみな勇士です、今荊門を失ったばかりで鋭を尽くして我に拒もうとしています、これは敗れを救わんとする軍ゆえ当たるべきではありません。南岸に駐まりその気の衰えるのを待ってから取るべきです」と述べたが、孝恭は聞かず自ら往いて戦い大敗して還った。賊は舟を棄てて散り掠奪していたが、靖はその乱れを見て兵を放って撃破し、四百余艘を奪い溺死者は万人に及んだ。ただちに軽兵五千を率いて先鋒となり江陵に趣き城に迫って営を布き、その将楊君茂・鄭文秀を破り甲士四千を捕虜とした。孝恭の軍が続いて進むと銑は大いに懼れ江南の兵を檄し召したが間に合わず、翌日降った。
- 靖はその都に入ると号令は静粛厳格で軍に私が無かった。ある者が銑の将で拒戦した者たちの家財を籍没して軍賞に充てることを請うと、靖は「王者の兵は民を弔って罪ある者を取るものだ、彼らは脅されて駆り立てられここに来て師に拒んだのであって、本来その情ではない、叛逆に比すべきではない。今荊・郢を新たに定めたばかり、寛大を示して人心を慰めるべきだ。もし降ってから籍没すれば、荊より南、堅城劇屯の民が死守に駆り立てられよう、これは善い計とは言えない」と述べ、籍没を止めさせた。これにより江漢の諸城は争って降った。
輔公祏討伐
- 輔公祏が丹陽に拠って反すると、詔により孝恭が帥とされ、靖も召されて朝で方略を受け、孝恭の副として東討し、李世勣ら七総管もみな節度を受けた。公祏は馮恵亮に舟師三万を率いさせ当塗に屯し、陳正通に歩騎二万を率いさせ青林に屯し、自らは梁山から連鎖して江道を断ち却月城を築き延袤十余里に及ぶ掎角の陣を布いた。
- 諸将は「彼は勁兵で柵を連ねており、我が師を疲弊させようとするだろう。もし直ちに丹陽を取ってその巣窟を空にすれば、恵亮らは自ずと降るだろう」と議論した。靖は「そうではない。三軍は精鋭とはいえ、公祏が自ら率いる者もまた鋭卒である、すでに石頭を保っている以上そこは牢固で抜けない。我が留まって志を得られなければ退くにも忌むところがあり、腹背に患いを被ることになる、これは百全の計ではない。しかも恵亮・正通は百戦の余の賊であって野戦を怯むものではなく、今まさに持重して公祏の立てる計を待っているのだ。もし不意を突きその城に攻め迫れば必ずこれを破れる。恵亮を抜けば公祏は捕らえられよう」と述べ、孝恭はこれに従った。
- 靖は黄君漢らとともに水陸ともに進み苦戦して一万余人を殺傷し恵亮らは逃げ去った。靖が軽兵を率いて丹陽に至ると、公祏は懼れ、衆はなお多かったが戦うことができず出て逃げた。これを捕らえ、江南は平定された。帝は「靖は銑・公祏にとっての膏肓(急所)である、古の韓信・白起・衛青・霍去病もどうしてこれに勝ろうか」と嘆じた。
対突厥・李陵に比した功
- 八年、突厥が太原を寇すると行軍総管となり江淮の兵一万を率いて太谷に屯した。諸将の多くが敗れる中、靖だけは軍を全うして帰った。太宗が即位すると刑部尚書を授けられ検校中書令を兼ねた。
- 突厥の部種が離反すると、帝はまさに進取を図り、兵部尚書として定襄道行軍総管とし勁騎三千を率いて馬邑から悪陽嶺に趣かせた。頡利可汗は大いに驚き「兵が国を傾けて来たのでなければ、靖がどうして敢えて孤軍でここまで至れようか」と言い、その部内はしばしば恐慌した。靖は諜者を放ってその腹心を離間させ、夜に定襄を襲いこれを破ると、可汗は身一つで磧口へ逃げた。靖は代国公に進封された。帝は「李陵は歩卒五千で沙漠を渡り絶ったが、ついに匈奴に降り、それでもなおその功は書に記された。靖は騎三千で虜庭を血で染め、ついに定襄を取った、古よりこれに並ぶ者はない、十分に渭水の恥をすすぐに足る」と述べた。
- 頡利は鉄山に逃げて保ち、使者を遣わし謝罪して国を挙げて内附することを請うた。靖は定襄道総管として迎えに遣わされ、また鴻臚卿唐倹・将軍安修仁に慰撫させた。靖は副将張公謹に「詔使が到れば虜は必ず自ら安んじるだろう、もし万騎に二十日分の糧を持たせ、白道から自ら襲えば必ず望みを得られる」と語った。公謹は「上はすでに降を約されました、使者があちらにおられます、どうしましょう」と言ったが、靖は「機を失うべからず、韓信が斉を破った所以はこれである。唐倹らのことなど惜しむに足らぬ」と述べ、督兵し急ぎ進んだ。
- 途中で候騎(斥候)に遭遇するとすべて捕らえて随行させ、その牙帳まで七里に至ってようやく気づかれた。部衆は震え潰え一万余級を斬り、男女十万を捕虜とし、その子畳羅施を捕らえ、義成公主を殺した。頡利は逃げたが大同道行軍総管張宝相に捕らえられ献上された。ここに地を斥き陰山の北から大漠に至った。帝はこれにより天下に大赦し民に五日の酺(酒宴)を賜った。
- 御史大夫蕭瑀は靖が軍を統率する術に欠け士に大掠を縦にし奇宝を散失させたと弾劾した。帝は靖を召して責めたが靖は弁明せず頓首して謝した。帝は徐に「隋の史万歳は達頭可汗を破ったが賞されず誅された。朕はそうしない、公の罪を赦し公の功を録す」と言い、左光禄大夫に進めた。まもなく「先に人が公を讒言したが、朕は今悟った」と言い、尚書右僕射に遷した。靖は参議のたびに、恂恂として言葉少なであるかのようで、沈厚をもって称された。
吐谷渾討伐と晩年
- しばらくして吐谷渾が辺境を寇した。帝は侍臣に「靖はまた起って帥となれるだろうか」と問うた。靖は房玄齢のもとを訪ね「私は老いたが、なお一行に堪えられる」と語った。帝は喜び西海道行軍大総管とし、任城王道宗・侯君集・李大亮・李道彦・高甄生の五総管の兵をみなこれに属させた。軍が伏俟城に次ぐと吐谷渾はその莽(草原)をことごとく焼き大非川に退いて保った。諸将は春草がまだ芽吹かず馬が弱く戦えないと議したが、靖は深く入る策を決断し積石山を越えた。数十度の大戦の末多くを殺獲しその国を残し、国人の多くが降り、吐谷渾の伏允は愁い蹙まって自ら首をくくって死んだ。靖はさらに大寧王慕容順を立てて還った。
- 甄生の軍は塩沢道から進んで期に後れ、靖はこれを簿してその罪を責めた。甄生は帰ってからこれを恨み、広州長史唐奉義とともに靖が謀反したと告げたが、有司が調べて根拠が無かったため甄生らは誣罔の罪に問われた。靖はこれにより門を閉ざして自ら守り、賓客親戚をみな謝絶した。衛国公に改封された。
- 帝が遼を伐とうとし靖を召して「公は南に呉を平らげ北に突厥を破り西に吐谷渾を定めた、ただ高句麗だけがまだ服していない、また意はあるか」と問うと、靖は「往年天威に頼り尺寸の功を効すことができました。今疾はやや衰えましたが、陛下がもし棄てなければ、病もまさに癒えましょう」と答えた。帝はその老いを憐れみ許さなかった。病が重くなると帝は自らその邸を訪れ涙を流し「公は朕の生涯の故人であり、国に功労がある。今この病がこのようであることを憂えている」と述べた。薨じた、時に年七十九。
史論
- 孫子は「兵の情は速を主とす」というが、靖が兵機は速さを神とすると述べたのがこれに当たる。また「乱れてこれを取る」というが、靖が敵の散乱に乗じて撃ちこれを破ったのがこれである。また「その不意に出づ」というが、靖が馮恵亮及び頡利を破ったのがこれに当たる。また「死間とは、外に誑(あざむ)きを為すなり」というが、靖が唐倹を虜への使者として突厥を襲い破ったのがこれである。