十七史百將傳卷九 唐李勣

李勣(もと徐氏、字は懋功、曹州離狐の人)。隋末に瓦崗の李密に従い黎陽倉を得て勢力を広げたが、密の敗後は唐に帰順した。竇建徳・王世充・突厥・高句麗の討伐に功があり、太宗・高宗の二代に重んじられて尚書左僕射に至った。乱に功あって過ちなしと評された唐初の重臣。享年八十六。

年表(4件)
  • 武徳二年李密が唐に帰属した際、その版図を密の功として自ら献上する
  • 武徳三年竇建徳のもとから脱し、自ら唐に帰順する
  • 貞観三年通漠道行軍総管として突厥討伐に出征する
  • 総章二年卒する、享年八十六

出自と瓦崗の李密への帰属

  • 李勣、字は懋功、曹州離狐の人で、もとの姓は徐氏。隋の大業末、韋城の翟譲が盗となると、勣は十七歳でこれに従った。彼は「あなたの郷里の壌を自ら剽掠して疲弊させるべきではありません、宋・鄧は商旅の集まるところで御河がその中を通り舟艦が相連なっています、往ってこれを邀え取れば自らを資することができます」と説き、譲はこれに従った。
  • 李密が雍丘に亡命すると、勣は譲に密を主に推すよう説いた。奇計をもって王世充を破った。時に河南・山東は大水害に遭い、隋帝は飢えた民を黎陽倉で食にありつかせようとしたが、役人がすぐに開かなかったため死者は日に万を数えた。勣は密に「天下の乱は飢えに本づく、今もし黎陽の粟を取って兵を募れば大事は成るでしょう」と説いた。密は麾下の兵五千を勣に付し、河を渡り黎陽を襲わせこれを守らせた。倉を開いて食を施すと旬日のうちに勝兵は二十万に達した。
  • 宇文化及が兵を率いて北上すると、密は勣に倉を守らせ塹を周囲に掘って自らを固めさせた。化及がこれを攻めると勣は地道から出て戦い、化及は敗れて引き去った。

高祖への帰順

  • 武徳二年、密が朝廷に帰属するとその地は東は海に属し南は江に至り西は汝にまっすぐ、北は魏郡に及んでいたが、勣がこれを統べており、いまだどこにも帰属していなかった。長史郭孝恪に「人衆と土地はみな魏公(李密)のものだ、もし私がこれを献上すれば、これは主の敗を利として自分の功にするようなもの、私はこれを恥じる」と語り、そこで郡県の戸口を記録して密に啓上し、密自らそれを上(唐に)献じるよう請うた。使者が至ると高祖は表が無いことを訝ったが、使者がその意を伝えると帝は喜び「純臣である」と言った。詔により黎州総管を授け英国公に封じた。姓を賜り宗正の属籍に付された。
  • 詔により勣は河南・山東の兵を総べて王世充を拒いだ。密が謀反により誅せられると、帝は使者を遣わし密の反状を示した。勣は収葬を請い、詔によりこれを許された。勣は密のために縗絰(喪服)を着し、葬儀を終えてから脱いだ。まもなく竇建徳に陥落させられ、その父を人質にとられ再び黎陽を守らされた。三年、自ら抜け出して帰順した。

秦王への従軍と突厥討伐

  • 秦王の東都討伐に従い戦って功があった。東に略地し虎牢に至り鄭州司兵沈悦を降した。竇建徳を平定し王世充を捕虜とすると、軍を振るって還り、秦王は上将、勣は下将となり、ともに金甲を着け戎輅に乗って廟に捷を告げた。
  • 太宗が即位すると并州都督を拝した。貞観三年、通漠道行軍総管として雲中から出て突厥と戦いこれを走らせた。李靖と兵を合わせると「頡利がもし磧を渡り九姓に拠れば、恐らく捕らえることができないでしょう。もし約して兵を薄くして迫れば戦わずして虜を縛れましょう」と述べ、靖は大いに喜びこれに合意し決断した。靖は衆を率いて夜に発し、勣は兵を率いてこれに従った。頡利が磧に走ろうとしたが、勣が先んじて磧口に屯し渡ることができなかったため、酋長は部落五万を率いて勣に降った。
  • 詔により光禄大夫、行并州大都督府長史を拝した。父の喪により解官したが、哀を奪われて官に還され英国に徙封された。并州を治めること十六年、威厳と粛正で聞こえた。帝はかつて「煬帝は人を選ばず辺境を守らせ、中国を労して長城を築いて虜に備えた。今朕は勣を用いて并州を守らせている、突厥は南に敢えて出てこない、長城よりはるかに優れている」と語った。

高句麗遠征と晩年

  • 後に帝が自ら高句麗を親征すると、勣は遼東道行軍大総管となった。蓋牟・遼東・白崖などの城を破り、駐蹕山の戦いに従って功が多く、一子を郡公に封じられた。延陀部落が乱れると、詔により二百騎を率いて突厥兵を発しこれを討たせ、烏徳鞬山で大戦してこれを破り、その首領梯真達干を降し、可汗の咄摩支は荒谷に遁走し、磧北はついに定まった。
  • 勣は忠実に力を尽くしたため、帝は大事を託せると考えていた。かつて勣が急病にかかったとき医者が「須(あごひげ)の灰を用いれば治せる」と言うと、帝は自ら須を剪って薬に和した。快癒すると入って謝し頓首して血を流した。帝は「朕は社稷のために計ったのだ、何を謝すことがあろうか」と言った。後の宴で帝は勣を顧みて「朕は幼い孤児(皇太子)を託そうと思うが、公に代わる者がいない。公は昔李密を見捨てなかった、どうして朕に背けようか」と言うと、勣は感涙し指を噛んで血を流した。まもなく大いに酔うと帝は自ら衣を解いてこれに覆った。
  • 帝が病むと太子に「お前は勣に恩が無い、今事によってこれを外に出す、朕が死んだら、ただちに僕射に任じよ、彼は必ず死力を致すだろう」と言い、疊州都督に任じた。高宗が立つとついに尚書左僕射となった。太宗の時、勣は凌煙閣に画像が飾られていたが、この時に至り帝は再びその形を図らせ自らこれに序文を書いた。
  • 高句麗の莫離支男生がその弟に逐われると子を遣わして援軍を求めた。詔により勣は遼東道行軍大総管とされ兵二万を率いてこれを討った。その国を破り高蔵・男建らを捕らえ、その地を州県に分けた。詔により勣は俘虜を昭陵(太宗陵)に献じ先帝の御意を明かし、軍容を具えて廟に告げた。太子太師に進んだ。総章二年、卒した、年八十六。帝は「勣は上に仕えて忠、親に事えて孝、三朝を経てなお過ちが無かった、性は廉謹で産業を立てなかった。今亡くなったが、遺財は無いだろう、有司は厚くこれを賻恤(弔慰金を贈ること)せよ」と言った。

人となり

  • 先に、勣が黎陽倉を抜いて食にありつく者が多く集まった際、高季輔・杜正倫はここへ客として来ており、虎牢を平定した際に戴冑を得たが、いずれも臥内に引き入れ礼を尽くして遇し、後にみな名臣となり、世は勣を人を知る者と称した。
  • 洛陽を平定して単雄信を得た時、その材武を表して「もし死罪を貸してもらえるなら、必ず報いがございましょう、願わくは官爵を返上してこれを贖わせてください」と言ったが許されなかった。そこで慟哭し股の肉を割いてこれを食べさせ「生死は永く決した、この肉だけは共に土に帰そう」と言い、その子を引き取って養った。
  • その用兵は多く籌算をなし、敵の情勢を察して変に応じ、すべて事の機に契っていた。人の善を聞くと手を打って嗟嘆した。戦に勝てば必ず功を部下に譲った。金帛を得るとことごとく士卒に散じ、私に貯えることが無かった。しかし法を執ること厳しかったため、人はこれのために力を用いた。事に臨んで将を選ぶ際には必ず容貌の福々しく壮健な者を選んで遣わした。あるいはその理由を問われると「薄命の人は成功名を共にするに足らない」と答えた。勣が没すると士はみな流涕した。

史論

  • 孫子は「周きを輔ければ国は必ず強し」というが、勣が并州を守り太宗が長城より優れると評したのがこれに当たる。また「戦い勝ちて攻め取るもその功を修めざる者は凶なり」というが、勣が戦に勝つたびに必ず功を部下に譲ったのがこれである。また「人を択びてこれに任す」というが、勣が将を選ぶ際に必ず容貌の福々しく壮健な者を遣わしたのがこれに当たる。