十七史百將傳卷八 唐李孝恭

出自と巴蜀平定

  • 李孝恭、若い頃から沈着で識量があった。高祖がすでに京師を平定すると山南招慰大使を拝し巴蜀を巡撫して三十余州を降した。朱粲を撃ってこれを破りその衆を捕虜とした。諸将は「粲の徒党は人を食らう摯(凶暴な)賊です、坑殺してください」と言ったが、孝恭は「そうではない、今並び立つ城はみなわが敵、もしこれを得ればすぐ殺すとなれば、この後誰が降ろうか」と述べすべて解放した。これにより檄が至るところ次々と降った。

蕭銑討伐

  • 蕭銑が江陵に拠ると、孝恭はしばしば銑を図る策を進め、帝はこれを嘉納した。趙郡王に爵を進めると大いに舟艦を造り水戦を演習した。折しも李靖が江南に使いする際、孝恭はその謀に頼り江陵を図ることとし、巴蜀の首領やその子弟をことごとく召してこれを収用し、表向きは登用を示しながら内実は人質とした。まもなく荊湘道総管に進み水陸十二軍を率いて夷陵を発し、銑の二鎮を破った。
  • 戦艦を放って江中に流すと、諸将は「舟を得ればわが軍の用に充てられるのに棄てるとはかえって賊を利するもの、なぜですか」と問うた。孝恭は「銑の境は南は嶺に、左は洞庭に至り地は険しく士も多い。もし城がまだ抜けぬうちに援軍が至れば我は内外に憂いを抱える。舟が多くても何に用いよう。今銑の江沿いの鎮戍は舟艫が江を蔽って下るのを見れば、銑がすでに敗れたと必ず思い、すぐには進軍せず偵察を往復させるうちに救援の時期を逸させられる、そうすればこちらはすでに江陵を抜いているだろう」と答えた。まもなく救援軍が巴陵に至り舟を見ると疑って進まなかった。銑は内外を阻絶され、ついに降った。
  • 帝は悦び荊州大総管に遷し、銑を破った様子を図に描いて進上させた。

輔公祏の反乱平定

  • 輔公祏が反し寿陽を寇すると、詔により孝恭は行軍元帥として討伐にあたった。兵を率いて九江に趣き、李靖・李勣・黄君漢・張鎮周・盧祖尚はみな節度を受けた。出発しようとして士に大いに饗宴を賜うと杯の酒が血に変わり、その場にいた者はみな色を失ったが、孝恭は動じず「禍福には基(源)が無く、ただ招くところに従うのみ。顧みるに我は物に背いておらず、諸君を重ねて憂わせるものではない。公祏の禍悪は極まっており、今威霊を仗んで罪を問おうとしている、杯中の血こそ賊臣が首を授ける瑞祥ではないか」とゆっくり述べ、酒を飲み尽くすと衆心は安んじた。
  • 公祏の将馮恵亮らが険を拠って邀撃しようとしたが、孝恭は堅く守り出でずに奇兵を遣わして餉道を絶った。賊は飢え夜に営に迫ったが孝恭は臥したまま動じなかった。翌日、羸兵(弱兵)に賊の塁を叩かせて挑ませ、祖尚は精騎を選んで陣を布いて待った。まもなく兵が退くと賊は追撃し勢いを増したが、祖尚の軍に遭遇して薄戦(近接戦)となりついに大敗した。恵亮は退いて梁山を保ったが、孝恭は勝ちに乗じてその別鎮を破り、賊は水に赴いて死ぬ者数千を数えた。公祏は窮まり丹陽を棄てて逃げたが、騎兵が追い詰めこれを生擒し、江南は平定された。
  • 貞観初、礼部尚書となり河間王に改封された。急逝した。隋が亡んで盗賊が天下に遍在し、みな太宗自らが討ち定めたもので謀臣驍将はみなその麾下に隷し特に一方面の功をもって自らを立てた将はいなかったが、孝恭だけは独り一方の功をもって自らを見(あらわ)したのであった。

史論

  • 孫子は「これを形すれば、敵必ずこれに従う」というが、孝恭が舟を江中に放って賊の援軍を疑わせたのがこれに当たる。また「祥(きざし)を禁じ疑いを去る」というが、孝恭が杯の血を首を授ける祥兆としたことで衆心が安んじたのがこれである。また「利をもってこれを動かし、卒をもってこれを待つ」というが、孝恭が羸兵に賊を挑発させ精騎で待ったのがこれに当たる。