十七史百將傳卷八 隋賀若弼

隋の将軍賀若弼(字は輔伯、河南確陽の人、?–607年)。文武に通じ、平陳の十策を献じて呉州総管となり、開皇九年の陳討伐では欺瞞策で長江を渡り建康を攻略して陳を滅ぼす功を立てた。功を誇り楊素と争って免官・除名を受け、煬帝の代に疎まれ大業三年誅殺された。

年表(2件)
  • 開皇九年行軍総管として大軍で長江を渡り建康を攻略して陳を平定した
  • 大業三年煬帝に疎まれ誅に坐して死んだ

出自と平陳の献策

  • 賀若弼、字は輔伯、河南確陽の人。若い頃より慷慨で大志があり、驍勇で弓馬に達し、文を作ることに通じ書記に博渉し、当世に重名があった。高祖が受禅すると密かに江南併呑の志を抱き、任せられる者を訪ねた。高熲は「朝臣の中で文武の才幹は賀若弼に及ぶ者はありません」と言い、高祖は「公はよき人を得た」と言った。そこで弼を呉州総管に拝し平陳の事を委ねた。弼は喜んでこれを自らの任とし、寿州総管源雄とともに重鎮となった。弼は雄に詩を贈り「交河の驃騎の幕、合浦の伏波の営。麒麟閣に上るとき、我ら二人の名を無くすことのないように」と述べた。また陳を取る十策を献じ、上はこれを称賛した。

大江渡河の欺瞞策

  • 開皇九年、大挙して陳を伐つに及び弼は行軍総管とされた。江を渡ろうとして酒を注いで誓い「弼は謹んで廟略を承け、遠く国威を振るい、罪を伐ち民を弔い凶を除き暴を剪らんとしております。上天と長江よ、この心をご照覧あれ。もし善を福し淫を禍いするならば大軍は無事に渡れましょう。もし事に違うことあらば江魚の腹に葬られても恨みはございません」と述べた。
  • 先に弼は江の防備の交代の際、必ず歴陽に集めることを願い出ていた。そこで大いに旗幟を列ね営幕を野に張った。陳人はこれを大軍が至ったと思い国中の士馬をことごとく発したが、まもなく防人の交代とわかるとその衆はまた散った。後にこれが常となり陳人は備えを設けなくなった。ここに至り弼は大軍で江を渡ったが陳人はこれに気づかなかった。

建康攻略

  • 弼は南徐州を襲いこれを抜いた。軍令は厳粛で秋毫も犯さず、民間で酒を沽った軍士があると弼はただちにこれを斬った。進んで蒋山に屯すると、陳の将魯広達・任蛮奴・田端・蕭摩訶らが精兵をもって拒戦した。田端がまず弼の軍を犯すと弼はこれを撃ち走らせた。広達らは相次いで進み弼の軍はしばしば退いたが、弼はその驕り士卒がやや惰弱になっているのを見抜き、将士を督励して死力を尽くして戦い、ついにこれを大破した。麾下が蕭摩訶を捕らえて至ると弼は左右に引き出させ斬ろうとしたが、摩訶は顔色も変えず、弼はこれを釈放して礼を尽くした。
  • 弼は北掖門から入った。時に韓擒はすでに陳叔宝を捕らえており、弼が至ると叔宝を呼び出して見させた。叔宝は股を震わせ再拝すると、弼は「小国の君は大国の卿に対し、拝するのが礼にかなっている。入朝すれば帰命侯の身分は失われぬ、恐れる必要はない」と言った。

晩年の不遇

  • 弼は自らの功名が朝臣の右に出ると考え常に宰相をもって自任していたが、まもなく楊素が僕射となり弼はなお将軍にとどまったため甚だ不平で言葉や顔色に表れ、これにより免官された。弼の怨望はますます甚だしくなり、数年後に獄に下され除名され庶民とされた。歳余りにしてその爵位を復した。上もまた弼を忌み、再び任用しなかった。
  • かつて突厥が来朝した折、上が射を賜うと突厥が一発で的に中てたため、上は「賀若弼でなければこれに当たれまい」と言い弼に命じた。弼は再拝して「臣がもし赤誠をもって国に仕える者であるならば、一発で的を破りましょう。そうでなければ発しても中らないでしょう」と誓い、射ると一発で命中した。上は大いに悦び突厥を顧みて「この人は天が我に賜うたものだ」と言った。
  • 煬帝が東宮にあった頃、かつて弼に「楊素・韓擒・史万歳の三人はいずれも良将と称されるが、その優劣はどうか」と問うと、弼は「楊素は猛将であって謀将ではない、韓擒は闘将であって領将ではない、史万歳は騎将であって大将ではない」と答えた。太子が「それなら大将とは誰か」と問うと、弼は拝して「ただ殿下の御選びに従います」と答え、弼は内心自らを大将たるべしと任じていた。煬帝が即位すると弼はことに疎まれ忌まれ、大業三年ついに誅に坐した。

史論

  • 孫子は「用いてこれに用いざるを示す」というが、弼が防人の交代を口実に敵に備えを設けさせなかったのがこれに当たる。また「将は孰れか能あるか」というが、弼が楊・韓・史の三将の優劣を論じたのがこれである。