十七史百將傳卷八 隋韓擒

出自と平陳前の対陳戦

  • 韓擒、字は子通、河東垣の人。若い頃より慷慨で胆略をもって称され、容貌は魁奇で雄傑の風貌があった。ことに経史百家を好みみなその大旨を略知した。太祖はこれを見て異とした。武帝が斉を伐つと、斉の将独孤永業が金墉城を守っていたが擒はこれを説いて下した。
  • 陳の将甄慶・任蛮奴・蕭摩訶らが共に声援し頻りに江北を寇し前後して国境に入ってきたが、擒はしばしばその鋒を挫き陳人は気力を失った。開皇初、高祖は密かに江南併呑の志を抱いており、擒に文武の才用があり夙に威名を著していたためこれを廬州総管に拝し平陳の任を委ね、敵から甚だ憚られた。

平陳の役

  • 大挙して陳を伐つに及び擒は先鋒とされた。擒は五百人を率いて夜に渡り採石を襲うと、守る者はみな酔っており擒はこれを取った。進んで姑孰を攻め半日で抜き、新林に次いだ。江南の父老はもとより擒の威信を聞いており軍門に来て謁見する者が昼夜絶えなかった。陳人は大いに驚き、陳叔宝は領軍蔡徴に朱雀航を守らせたが擒がまもなく至ると聞き衆は懼れて潰れた。任蛮奴は賀若弼に敗れ軍を棄てて擒に降った。擒が精騎五百で朱雀門に直入すると、陳人は戦おうとしたが蛮奴が「老夫すら降ったのだ、諸君何をためらうのか」と制すると皆散り去った。ついに金陵を平定し陳主叔宝を捕らえた。

賀若弼との功争い

  • 賀若弼は擒と帝の前で功を争い、弼は「臣は蒋山で死戦しその鋭卒を破りその驍将を捕らえ威武を震揚し、ついに陳国を平定しました。韓擒は略陣を交えることもなく、どうして臣と比べられましょうか」と言った。擒は「もとより明旨を奉じ、臣は弼とともに時を合わせ勢いを合わせて偽都を取れとのご命令でありました。弼はあえて期日に先んじ賊に逢うとすぐ戦い、将士の傷死は甚だ多く出ました。臣は軽騎五百をもって兵は血刃せず直ちに金陵を取り、任蛮奴を降し陳叔宝を捕らえ、その府庫を拠りその巣穴を頓(占拠)しました。弼は夕方になってようやく北掖門を叩き、臣が関を啓いてこれを納れたのです。これでは救いようのない罪であり、どうして臣と比べられましょうか」と述べた。上は「両将ともに上勲に合う」と言った。
  • 先に江東に謡歌があった。「黄斑青驄馬、寿陽の涘(きし)より発す。来る時は冬の気の末、去る日は春風の始め」というもので、みなその意味を知らなかった。擒はもとの名を虎といい、陳平定に際して青驄馬に乗り、往来の時節がこの歌に相応しく、ここに至ってようやく人々は悟った。

逸話

  • その後、突厥が来朝すると、上は「お前は江南に陳国の天子がいたことを聞いているか」と問い、突厥が「聞いております」と答えると、上は左右に突厥を擒の前に引き至らせ「これが陳国の天子を捕らえた者だ」と言った。擒が厳かにこれを顧みると突厥は惶恐し仰ぎ見ることができなかった。その威容はこのようであった。
  • ほどなく擒の隣家の母がその門下の盛んな様子が王者のようなのを見て異とし問うと、その人は「私は王をお迎えに来たのです」と答え、たちまち姿を消した。また病篤い人が突然驚いて擒の家に走り「私は王に謁見したいのです」と言い、左右が「何王か」と問うと「閻羅王です」と答えた。擒の子弟がこれを打とうとすると、擒は止めて「生きては上柱国となり死しては閻羅王となる、それもまた十分ではないか」と言った。まもなく病の床につき数日で卒した。

史論

  • 孫子は「その無備を攻む」というが、擒が夜に渡って採石を襲ったのがこれに当たる。また「人の城を抜きて攻むるに非ざるなり」というが、擒が兵を血刃せずに直ちに金陵を取ったのがこれに当たる。