十七史百將傳卷七 秦王猛

出自と隠棲

  • 王猛、字は景略、北海劇の人、魏郡に家した。若くして貧賤で畚(土運び用のもっこ)を売って生計を立てていた。かつて洛陽で畚を売ったところ、ある人が高値で買いながら代金を渡さず「家はここから遠くない、私について来れば代を渡す」と言った。猛はその高値に惹かれてついて行くと、いつしか遠く深山に至り、鬚髪の真っ白な老父が胡床に踞って座り、左右に十数人を従えているのを見た。一人が猛を引いて拝させると、老父は「王公、なぜ拝するのか」と言い、畚の代を十倍にして人に送らせた。猛が出て振り返ると、そこは嵩高山であった。
  • 猛は博学で兵書を好み、気度は雄遠であった。華山に隠れ世を佐ける志を懐き、風雲を待って動こうとした。桓温が関に入ると猛は褐衣のまま訪ね、一面して当世の事を語り、虱を捫りながら傍らに人なきがごとく論じた。温はこれを見て異とした。温が帰るに際し猛に車馬を賜り共に南へ行くことを請うたが、猛は山に還って師に諮ると、師は「お前と桓温がどうして並び立てようか。ここにいれば富貴を得られる、なぜ遠くへ行くのか」と言い、猛はこれを止めた。

苻堅への出仕

  • 苻堅が大志を懐き猛の名を聞くと、呂婆樓を遣わして招いた。一見して旧知のごとくであり、廃興の大事を語り合うと意見は符合し、まるで劉玄徳が孔明に出会ったかのようであった。年中に五たび昇進し権は内外に傾いた。後に諸軍を率いて慕容暐を討つとき、軍紀は厳明で軍に私犯なく、猛がまだ鄴に至らぬうちは劫盗が公然と行われていたが、猛が至ると遠近は帖然として燕人は安んじた。冀州に留鎮するや、六州の内で便宜に従い事を処すことを許され、英俊を選び関東の守宰に補し、任命後に台に正式の除授を報告した。まもなく入って丞相となり、都督中外諸軍事を加えられた。猛は久しく譲り続けたが、堅は「卿は昔布衣のまま身を潜め、朕は弱冠にして龍潜していた。朕は卿を一見してその奇を知り卿を臥龍に擬えた、卿もまた一言で朕を異とした、思えばまことに精契神交、千載一遇の出会いであった。傅巌の夢や姜太公の兆と、今も昔も変わりはない。朕は上で従容としていたい、卿には下で心を尽くしてもらいたい、弘済の務めは卿でなければ誰がなす」と述べ、許さなかったので、猛はついに命を受けた。

宰相としての治績

  • 軍国内外の万機の務めは巨細を問わずすべて猛に帰した。猛の政は公平で、怠慢の徒を流し放ち、埋もれた人材を抜擢し賢才を顕し、外は兵革を修め内は儒学を崇め、農桑を勧め廉恥を教え、罪なくして刑せられる者なく才なくして任じられる者なく、諸事はよく整い百官の序も正しかった。これにより兵は強く国は富み、太平に近づいたのは猛の力であった。堅は常に従容として猛に「卿は夙夜怠らず万機に憂勤している、文王が太公を得たようなもの、私はゆったりと歳月を送ることができる」と語ると、猛は「陛下が臣の過ちを知らぬのが恐れ多い、私など古人に及びません」と答え、堅は「私が見るに、太公すら卿に及ぶまい」と述べた。かつて太子宏や長楽公丕らに「お前たちが王公に仕えるのは私に仕えるのと同じと心得よ」と命じたほど、重んじられていた。
  • 猛は性が剛明清粛で善悪を厳しく分けた。微賤の頃に受けた一飯の恩や些細な恨みまで必ず報い、世論はこれをやや軽んじる声もあった。

臨終の遺言

  • 猛が病に伏すと堅みずから見舞い、後事を問うた。猛は「晋は僻遠の呉越にあるとはいえ、正朔を相い承けています。親仁善隣は国の宝、私が没した後は晋を図ることのないよう願います。鮮卑や羌の虜は我らの仇敵、いずれ人の患いとなるでしょう、漸くこれを除くことが社稷の益となります」と言い終えて没した。

史論

  • 孫子は「彼を知り己を知る」というが、猛が苻堅に晋を図らぬよう諫めたのがこれに当たる。