十七史百將傳卷七 燕慕容恪

出自と登用

  • 慕容恪、字は元恭、慕容皝の子。沈深にして大度あり。十五歳のとき身の丈八尺七寸、容貌は魁傑で雄毅厳重、語る所は常に世務を綜理するものであったため、皝は初めて器と認め兵を授けた。しばしば皝の征伐に従い、機に臨んで多くの奇策を出した。遼東を鎮めるとその威と恵は甚だ著しく、高句麗は恪を憚って寇を為さなかった。皝が終わりに臨み、子の雋に「今、中原はまだ一つでなく、まさに大事を起こそうとする時、恪は智勇ともに備えている、お前はこれを頼りにせよ」と告げた。雋が位を継ぐと、恪はいよいよ親任された。累戦して大功があり太原王に封じられた。雋が病に伏すと恪と慕容評を引き寄せ後事を託した。暐の代になると恪は朝権を総攬した。

輔政と人望

  • 初め、建鄴(東晋)は雋の死を聞き「中原は図れる」と言ったが、桓温は「慕容恪がなお健在だ、憂うべきはこちらの方が大きい」と述べた。慕容根が誅されると内外は危懼したが、恪は容止いつも通りで神色自若とし、出入りは一人の従者を連れるのみであった。ある人がこれを諫めると、恪は「人情は恐れを懐いている、まず自ら安んじてこそこれを鎮められる。私まで落ち着かなければ、衆は何を仰ぎ見ればよいのか」と答え、これで人心はようやく安定した。
  • 恪は虚心に人を待ち善き道を諮問し、才を量って任に処し、人がその位を越えぬようにさせた。権政を執っていても必ず評に諮り、朝を退いて邸に帰れば専心して親を養い、書を手放さなかった。恪が洛陽を囲んだとき秦(前秦)中は大いに震え苻堅みずから潼関に備えて出陣したが、恪の軍が引き返すとようやく落ち着いた。恪は將として威厳を尚ばず、専ら恩信で人を御し、大略に努めて小さな命令で衆を煩わせなかった。軍士が法を犯しても密かにこれを赦し、賊の首だけを斬って軍に令とした。営内は乱れているように見えて防御は甚だ厳しく、ついに敗北することがなかった。

臨終の遺言

  • 恪は臨終に際し、暐がみずから見舞い後事を問うと、恪は「私は恩に報いるにこれ以上の道はなく人材を推挙することと聞く、たとえ道半ばの築城であってもそうなのだから、まして国の重鎮を推すことに躊躇いはない。呉王(慕容垂)は文武兼備の才で管仲・蕭何に亜ぐ人物、陛下がもし彼に政を任せれば国はやや安んじよう。そうしなければ、私は二つの敵国(前秦・東晋)が必ず隙をうかがうと恐れる」と述べ、言い終えて没した。

史論

  • 孫子は「周を輔ければ国必ず強し」というが、恪が中原に在るあいだ桓温が「憂うべきはこちらの方が大きい」と言ったのがこれに当たる。また「卒いまだ親附せざるにこれを罰すれば服せず」というが、恪が將として専ら恩信をもって威厳を尚ばなかったのがこれである。