十七史百將傳卷七 宋檀道濟

宋の将軍檀道済。高平金鄉の人。武帝の北伐に前鋒として従い降者を釈放して中原を懐柔し、文帝のもとでは魏軍と三十余戦して滑台を落とし、唱籌量沙の計で全軍を保って帰した名将。威名を朝廷に疑われ、彭城王義康の讒言により誅殺された。

年表(1件)
  • 元嘉八年431年魏軍を破り滑台を落とすも兵糧尽き唱籌量沙の計で全軍を保って撤退した

出自と北伐の功

  • 檀道濟、高平金鄉の人。宋の武帝が北伐したとき道濟は前鋒となり、至る所望みに応じて降服させた。まっすぐ洛陽に進むと、議者は捕虜をすべて戮して京観(見せしめの塚)とすべきと言ったが、道濟は「罪を伐ち人を弔うのは正にこの日にこそある」と述べ、皆を釈放して帰らせた。これにより中原は感悦し帰順する者が甚だ多かった。
  • 文帝が即位すると、道濟に中領軍劉彥之とともに前駆として西を伐たせた。上(文帝)が道濟に策を問うと、「私はかつて謝晦と共に北征に従い、関に入る十策のうち晦が九策を出しました、才略明練で並ぶ者は少ないでしょう。しかし孤軍で勝ちを決したことはなく、単独の軍事は恐らく彼の得意ではありません。私は晦の智を知り、晦は私の勇を知っています。今、王命を奉じて外を討てば、必ず陣を布く前に捕えられるでしょう」と答えた。晦はもともと道濟が徐羨之らと共に誅されたと思っていたが、突然道濟が来上したと聞くと戦わずして自潰した。事が平定すると征南大將軍に遷った。

唱籌量沙の計と魏軍撃退

  • 元嘉八年(431年)、劉彥之が魏を侵し河南を平定したがまた失った。道濟は征討諸軍事を都督し北方の地を略し、転戦して済水のほとりに至った。魏軍は盛んであったが、ついに滑台を克した。道濟はこのとき魏軍と三十余戦し多くに勝ったが、軍が歴城に至ると輸送が尽きたため引き返した。
  • このとき魏に降った者が兵糧の欠乏を詳しく話したため、士卒は憂懼し戦意を失っていた。道濟は夜、籌(かぞえ棒)を唱えて砂を量らせ、残っていた僅かな米をその上に散らした。夜が明けると、魏軍は兵糧がなお余っていると誤解し、それ以上追撃せず、降者を偽りを述べたとして斬った。しかし当時道濟の兵は寡弱で、軍中は大いに懼れていた。道濟は軍士に甲を着けさせながら自らは白衣で輿に乗り、徐々に外囲を出た。魏軍は伏兵を疑って迫らず、道濟の軍は帰還を果たした。道濟は河南を平定しきれなかったものの全軍を保って帰り、雄名は大いに振るい、魏はこれを甚だ憚った。

讒言による誅殺

  • 道濟は前朝以来の功があり威名甚だ重く、左右の腹心もみな百戦を経た者たち、子らも才気に富んでいたため朝廷はこれを疑い畏れた。時の人はある人を評して「安んぞ司馬仲達(司馬懿)ではないと知れようか」と道濟に重ねた。文帝が病に伏すと彭城王義康は帝の崩御に及んで道濟がもはや制しきれなくなることを懼れ、道濟を召して入朝させた。妻の向氏は「高世の勲功は道家の忌む所、今、事もないのに呼ばれるとは、禍がまさに至るのでは」と言った。道濟は捕らえられると憤怒気盛んで目は炬火のようであった。一斛の酒を飲み干し、幘(頭巾)を脱いで地に投げつけ「これで自らお前たちの万里の長城を壊すことになる」と言った。魏人はこれを聞き「道濟がすでに死んだのなら、呉の連中はもう恐れるに足らぬ」と言い合い、以後、毎年南伐して長江に馬を飲ませようとする志を懐いた。
  • 文帝が殷景仁に「誰が道濟を継げるか」と問うと、「道濟はたびたびの戦功が重なって威名を得たに過ぎず、他に任せられる者はいません」と答えた。帝は「そうではない。昔、李廣が朝にあったとき匈奴は南を望むことすらしなかった、後を継ぐ者がいったいどれほどいるだろうか」と述べた。後に魏が瓜歩に至った折、文帝は石頭城に登って望み、大いに憂色を見せ「もし道濟が生きていれば、こうはならなかったろう」と嘆いた。

史論

  • 孫子は「將軍は心を奪うべし」というが、道濟が謝晦に「晦は私の勇を知っている」と語り、果たして晦が戦わずして自潰したのがこれに当たる。また「強弱は形なり」というが、道濟が籌を唱えて砂を量り魏軍を退かせたのがこれである。