十七史百將傳卷六 晉周訪

晋の将軍周訪(字は士達、?–320年)。汝南安城の人。元帝に仕え華軼・杜弢・杜曾らの反乱を次々に平定した中興の名将。性は謙虚で功を誇らず、王敦が専横の心を懐きながらも訪が世にある間はついに叛くことができなかった。

年表(1件)

出自と華軼討伐

  • 周訪、字は士達、汝南安城の人。元帝が長江を渡ると鎮東軍事に参与するよう命じられた。まもなく揚烈將軍となり兵千二百を領して尋陽・鄂陵に屯し、甘卓・趙誘とともに華軼を討った。
  • 訪の統べる厲武將軍丁乾が軼配下の武昌太守馮逸と通じたため、訪はこれを捕らえて斬った。逸が訪を攻めると、訪は軍を率いて撃破した。逸は柴桑に逃げ込んで守ったが、訪は勝ちに乗じて進撃した。軼は配下の王約・傅禮ら一万余人を逸の救援に送り、湓口で大戦したが約らはまた敗れた。訪は甘卓らと彭澤で合流し、軼の水軍將朱矩らと戦い、これも破った。軼の將周廣が城を焼いて訪に呼応すると軼の軍は潰え、訪は軼を捕らえて斬り、江州を平定した。

杜弢討伐

  • 帝は訪を振武將軍とし、さらに諸軍とともに杜弢を討たせた。弢は桔槔(はねつるべ状の道具)で官軍の船艦を打とうとしたが、訪は長い岐棖を作ってこれを防ぎ、桔槔は害をなさなかった。賊は青草湖から官軍を密かに襲い、またその將張彥を遣わして豫章を陥れ城邑を焼いた。当時湓口に鎮していた王敦は督護繆蕤・李常を訪の節度下に置いて彥を撃たせた。蕤は豫章石頭で彥と交戦しその軍を退かせた。訪は帳下の將李午らを率いて彥を追い、これを破って陣中で斬った。訪はこのとき流矢に当たり前歯を二本折ったが顔色を変えなかった。
  • 日暮れ、訪は賊と水を隔てて対峙したが、賊は数倍の兵力で敵しがたいと悟り、密かに樵採を装った兵を出させた。そこで陣を結び鼓を鳴らして進み「左軍至る!」と大声で叫ばせ、士卒は万歳を唱えた。夜になると軍中に多くの火を焚いて食事をさせたので、賊は官軍がさらに増えたと思い夜明け前に退いた。訪は諸將に「賊は必ず退くが、いずれ我に援軍がないと知れば戻って我々を襲うはず、急ぎ水を渡って北へ移るべき」と述べ、渡り終えて橋を断つと果たして賊が至ったが水に阻まれて進めず、そのまま帰った。
  • 弢は杜弘を廬陵に置いて守らせたが、訪は追撃してこれを破り、賊は城に籠もって自守した。まもなく軍糧を賊に奪われ巴丘に退いたが、糧が届くと再び弘を廬陵に包囲した。弘が城外に大量の宝物を投げると軍人が競って拾い、弘はその陣の乱れに乗じて包囲を突破して逃れた。訪は軍を率いて追撃し、鞍馬・鎧仗を数えきれぬほど得た。

杜曾討伐

  • 帝は訪をさらに龍驤將軍に進め、王敦は豫章太守として上表し徵討都督を加えた。梁州刺史張光が卒すると、愍帝は侍中第五琦を征南大將軍として荊・梁・益・寧四州を監させ武關から出させた。賊帥杜曾・摯瞻・胡混らはみな琦を迎えて奉じ、数万の兵を集めて石城で陶侃を破り、平南將軍荀崧を宛で攻めたが落とせず、江陵へ向かった。王敦は従弟の暠を荊州刺史として督護征虜將軍趙誘・襄陽太守朱軌・陵江將軍黄峻らに曾を討たせたが、女觀湖で大敗し誘・軌は共に討ち死にした。曾は暠を追い出し沔口に直行して大いに侵掠を働き、その威は江沔を震わせた。
  • 元帝が訪に討伐を命じた。訪は八千の兵を率い沌陽まで進んだ。曾らは鋭気甚だ盛んで、訪は「先んじて人の心を奪うのが軍の善謀」と述べ、將軍李常に左甄を、許朝に右甄を督させ、自らは中軍を領して旗幟を高く張った。曾は果たして訪を畏れ、まず左右の甄を攻めた。曾の勇は三軍に冠たるもので、訪はこれを甚だ嫌い、自ら陣後で雉を射て衆心を安んじた。軍に「一甄が敗れれば鼓を三たび、両甄が敗れれば鼓を六たび鳴らせ」と命じた。趙嗣は父の残兵を率いて左甄に属し力戦したが敗れては合し直した。嗣が馬を馳せて訪に告げると訪は怒り、叱って更に進ませた。嗣は号泣しつつ戻って戦い、朝から申の刻まで両甄はいずれも敗れた。訪は鼓音を聞くと精鋭八百人を選び自ら酒を注いで飲ませ、みだりに動かず鼓音を聞いてから進めと命じた。賊が三十歩に至らぬうちに訪は自ら鼓を鳴らし、將士は皆躍り出て駆け付け、曾はついに大潰し千余人を殺した。
  • 訪は夜も追撃した。諸將は明日を待つよう請うたが、訪は「曾は驍勇で善戦するが、先の敗北は彼が労し我が逸したためだ。その衰えに乗じるべき、滅ぼせる」と述べ、鼓を打ち鳴らして進み、ついに漢沔を平定した。曾らは武当に走って守りを固めた。訪は功により南中郎將・督梁州諸軍・梁州刺史に遷り襄陽に屯した。訪は僚佐に「昔、城濮の役で晉の文公は子玉(得臣)が死なずにいることを憂えた。今、曾を斬らねば禍難は尽きない」と述べ、不意を突いて再び撃破し、曾は逃げ去った。訪の部將蘇温が曾を捕らえて軍に送り、第五琦・胡混・摯瞻らも捕らえて王敦に送った。訪はまた敦に、琦は曾に迫られたのであり殺すべきでないと述べたが、敦は従わず斬った。訪は安南將軍に進み、持節・都督・刺史はそのままであった。

王敦との確執と晩年

  • 初め、王敦は杜曾の難を懼れ訪に「曾を捕えたら荊州刺史に推挙しよう」と言っていたが、この時になって敦はこれを用いず、訪は大いに怒った。敦は自筆の書で釈明し、玉環・玉碗を贈って厚意を示したが、訪は碗を地に投げつけ「私は商人の子か、宝で悦ぶとでも思うのか」と述べ、密かに敦を図ろうとした。
  • 訪は襄陽にあって農事と軍の訓練に努め、意見の採用にも勤め、守宰に欠員が出ればその都度補い、その後に上奏した。敦はこれを憂いつつもその強さを憚り、異を唱えなかった。訪の威風は著しく遠近が悦び服し、智勇は人に優れ、中興の名將であった。性は謙虚で功績を誇ったことがなく、ある人が「人は小さな善行でもみずから称えぬ者は少ないのに、公ほどの功でありながら一言もないのはなぜか」と問うと、訪は「朝廷の威霊と將士の働きによるもの、訪に何の功があろうか」と答え、士はこれで訪を重んじた。
  • 訪は兵を練り卒を簡び中原に力を尽くそうとし、李矩・郭默と結び、慨然として河・洛を平定する志を抱いた。撫でて懐柔することに巧みで士衆は皆訪のために死を致した。敦に不臣の心があると聞くと訪は常に切歯した。敦は逆謀を懐きながらも、訪が世にある間はついに非を為すことができなかった。太興三年(320年)に卒した。

史論

  • 孫子は「これを形せしめれば敵必ず従う」というが、訪が「左軍至る」と揚言して杜弢を敗走させたのがこれに当たる。また「餌兵は食うなかれ」というが、訪の軍が競って宝物を拾ったために杜弘に脱出を許したのはこの戒めが破られた例である。また「佚を以て労を待つ」というが、訪が杜曾に両甄を破らせて疲れさせてから出撃したのがこれに当たる。また「善く戦う者は其の節短し」というが、訪が敵を三十歩まで引き付けてから撃ったのがこれである。