十七史百將傳卷六 晉陶侃

出自と江夏太守就任

  • 陶侃、字は士行、鄱陽の人。劉弘が荊州刺史として赴任するとき侃を南蠻長史に招き、先に襄陽へ向かわせ賊張昌を討たせて破った。弘は着任すると侃に「私はかつて羊公(羊祜)の参軍だったとき、後にこの地位に居る者が出ると言われた。今見るに、必ず私の後を継ぐのはお前だろう」と語った。
  • 陳敏の乱に際し、弘は侃を江夏太守・鷹揚將軍とした。敏が弟の恢を遣わし武昌を侵すと侃は出兵して防いだ。隨郡内史扈瑰が弘に「侃は敏と同郷の旧交があり大郡を治め強兵を統べる、もし異心あらば荊州の東門は失われる」と讒言したが、弘は「侃の忠と能は久しく知っている、そのようなことはない」と退けた。侃はこれを聞き、急ぎ子の洪と兄の子臻を弘のもとへ送って自らの潔白を示した。弘は二人を参軍に引き立てて送り返し、侃を督護に加えて諸軍と共に恢に対抗させた。侃は運送船を改造して戦艦とし、「官物を用いて官賊を討つのだ、事の顛末を上奏すればよい」と述べて恢を撃ち、向かう所必ず破った。戦利品はすべて士卒に分け、私しなかった。龍驤將軍・武昌太守に遷った。
  • 当時天下は饑饉で山夷がしばしば長江で略奪を働いた。侃は諸將に商船を装わせて誘い出させ、生け捕った数人が西陽王羕の配下だと判明すると、羕に賊を出すよう迫り釣台に陣を布いて後詰とした。羕は二十人を縛って差し出し、侃はこれを斬った。以後水陸は粛清され、流民が路に溢れるほど帰り、侃は蓄えを尽くして救済した。また郡の東に夷市を立て大いに利を収めた。

杜弢討伐と王敦との軋轢

  • 帝は侃に杜弢を撃たせた。荊州刺史周顗が潯水城に先に鎮していたが賊にその良口を奪われた。侃が部將朱伺を遣わして救うと賊は冷口に退いて守った。侃は諸將に「賊は必ず武昌へ向かうはず、我は城に還るべきだ、昼夜三日で至れる、飢えに耐えられるか」と問い、部將呉寄が「十日耐え、昼は戦い夜は漁で食を補う」と答えると、侃は「よい将だ」と称えた。賊は果たして増兵して攻めたが、侃は朱伺らに迎撃させ大破した。王敦は「陶侯がいなければ荊州は失われていた」と述べ、上表して侃を荊州刺史に任じた。
  • 賊王沖が江陵に拠った。参軍王貢は侃の命を偽って杜曾を前鋒大督護とし進軍して沖を斬らせ、その衆を降した。侃が曾を召しても来ず、貢もまた偽命が発覚するのを恐れて曾と共に反し、侃の督護鄭攀を沌陽で破り、朱伺も沔口で敗れた。侃は鄖中に退こうとしたが、部將張奕が二心を抱き「賊が来て動けば衆は必ず乱れる」と偽って諫めたため惑い進まなかった。まもなく賊が至り果たして敗れ、侃の乗る艦を鈎で引かれ小船に逃げ込む窮地に陥ったが、朱伺の力戦でようやく免れた。張奕はそのまま賊に走った。侃はこの責で免官となったが、王敦の上表で白衣のまま職を領し、再び杜弢を撃って破ったため官を復した。
  • 弢の將王貢が精卒三千で武陵江に出て五溪の夷を誘い、舟師で官の輸送を断ち武昌へ直行しようとしたので、侃は鄭攀・伏波將軍陶延を夜に巴陵へ向かわせ不意を突いて大破させた。貢は湘城に逃げ帰り、弢は張奕を疑って殺した。貢が再び挑戦してきたとき、侃は遠くから「杜弢は益州の吏として庫銭を盗み、父の死にも喪に赴かなかった。お前は本来立派な者、なぜ従うのか。天下に白頭の賊などあろうか」と語りかけた。貢はもとは馬上で脚を横にしていたが、侃の言葉を聞くと容儀を正して脚を下ろし言葉つきも従順になった。侃は貢を動かせると見て諭させ、髪を截って信とし、貢はついに降り、弢は敗走した。
  • 王敦は侃の功を深く忌み、広州刺史・平越中郎將に左遷し、荊州には王廙を充てた。侃の將鄭攀らは南行を望まず、西の杜曾を迎えて廙に抗った。敦は攀が侃の意を受けたものと考え、侃を殺そうとすること四度に及んだが、侃は色を正して「使君ほどの雄断が、なぜこの一事に決しかねるのか」と述べて厠に立った。諮議参軍梅陶が敦に「周訪は侃の姻戚で左右の手のようなもの、一方の手を断って他方が応じぬはずがない」と説き、敦の意は解けて侃は夜に出発した。豫章に着き周訪に会うと涙を流して「あなたの助けがなければ私は免れなかった」と言い、始興まで進んだ。
  • 先に広州人が刺史郭訥に背き、長沙人王機を刺史に迎えていた。機は敦に使いを送り交州を求め敦はこれを許したが機はまだ発たなかった。折しも杜弘が臨賀に拠って機に降伏を求め、機は弘に広州を取るよう勧め、弘は温邵と謀反した。侃を始興に留めて形勢を見るよう勧める者もいたが侃は聞かず、直ちに広州へ向かった。弘は偽って降を請うたが、侃はその詐りを見抜き先に封口で石車を起こして備えた。まもなく弘が軽兵で至ると、侃に備えがあると知り退いた。侃は追撃してこれを破り、部將許高を遣わして機を討ち斬らせ、首を京都に伝えた。將たちは勢いに乗じて温邵を討つよう請うたが、侃は笑って「我が威名はすでに著しい、なぜ兵を遣る必要があろう、一通の書で決まる」と述べ、書を下して諭すと邵は懼れて逃げ、始興で捕らえられた。

政務と晩年の逸話

  • 侃は州にあって事なきときも朝に百枚の甎(かわら)を書斎の外へ運び、夕にまた書斎の内へ運んだ。理由を問われると「私はいずれ中原に力を尽くすつもりだ、あまり安逸に過ごせば事に堪えられなくなる」と答えた。その励志勤力はみなこの類であった。侃は聡敏で吏職に勤め、常に人に「大禹のような聖人でさえ寸陰を惜しんだ、まして凡人は分陰を惜しむべきだ。生きて世に益なく死して後に聞こえなければ、それは自ら棄てるのと同じ」と語った。
  • 船を造る際、木屑と竹の切れ端をすべて収めさせ、人々はその理由を解さなかったが、後の正会(新年の朝賀)で積雪が晴れた後、庁事前のぬかるみに木屑を敷いて用いた。また桓温の蜀討伐の折には貯えた竹頭を船の丁装に用いた。その細やかな配慮はこの類であった。
  • 蘇峻が反乱を起こすと、温嶠・庾亮らと石頭で会した。諸軍は決戦を望んだが、侃は賊の勢いが盛んで正面から争えぬとし、歳月をかけ智計で捕えるべきと考えた。連戦して功がなく、諸將が査浦に塁を築くことを請うと、監軍部將李根が白石塁を建てるべきと進言した。侃は従わず「もし塁が成らなければお前の責だ」と言うと、根は「査浦は低地でしかも水南、白石だけが険固で数千人を容れられる、賊が攻めにくく賊を滅ぼす術となる」と答え、侃は「良將だ」と笑い、その策に従って一夜で修築した。賊はこれを見て大いに驚いた。賊が大業の塁を攻めたとき、侃が救おうとすると、長史殷羨が「大業を救援すれば歩戦では峻に及ばず大事を失う、むしろ石頭を急襲すべき、峻は必ずこれを救おうとするので大業は自ずと解ける」と述べ、侃はこれに従い、峻は果たして大業を棄てて石頭を救おうとした。諸軍は陳陵の東で峻と戦い、侃の督護景陵太守李陽の部將彭世が陣中で峻を斬り、賊は大潰した。
  • 後將軍郭默が偽詔で平南將軍劉胤を襲殺し江州を勝手に領すると、侃は「これは必ず偽りだ」と述べ、將軍宋夏・陳修に湓口を守らせ、自ら大軍を進めた。默が中詔の写しを侃に呈すと、参佐の多くは「默は詔を受けていないのになぜこのようなことをするのか、詔の確認を待つべき」と諫めたが、侃は色を厳しくして「国家はまだ幼く、思うままに動けない。劉胤は朝廷に礼せられた人であり、任に方って不才であったとしても、なぜみだりに極刑に処されるのか。郭默は勇猛だが暴掠を行う輩、大乱が収まったばかりで綱紀が緩んでいる隙に横行しようとしているだけだ」と述べた。侃が至ると默の部下宗侯が默を縛って降を請い、侃はこれを斬った。默はかつて中原で石勒らと数々戦い賊にも恐れられていたが、侃の討伐と聞くと戦わずして捕えられ、人々はますます侃を畏れた。
  • 侃は薨じた。時に七十六歳。蘇峻の役で庾亮が軽々しく進んで敗れたとき、亮の司馬商融が侃に謝って「将軍がこうなったのは融らの裁量ではありません」と言い、將軍王章が来て「章が自らやったこと、将軍は知らぬこと」と言うと、侃は「昔は商融が君子で王章が小人だったが、今は王章が君子で商融が小人だ」と評した。
  • かつて議者が武昌の北岸にある邾城に分兵して鎮すべきと言ったが侃は答えなかった。言う者が絶えないので侃は水を渡って狩りをしながら将佐に「私が険を設けて寇を禦ぐのは、まさにこの長江による。邾城は江北に隔たり内に頼りなく外は諸夷に接する。夷の中は利が深く晋人が利を貪れば夷は堪えかねてやがて寇虜を招く。それは禍を招く道であって寇を禦ぐものではない。かつて呉の時代この城は三万の兵で守っていた、今兵を置いても江南の益にはならない。もし羯虜に付け入る隙があるなら、これもまた頼りにはならない」と説いた。後に庾亮がこの城を守ったが果たして大敗した。
  • 梅陶は親しい曹識への書に「陶公の機神明鑑は魏武(曹操)に似て、忠順勤労は孔明に似ている、陸抗ら諸人も及ばない」と記し、謝安は常に「陶公は法を用いながらも、いつも法の外の意を得ていた」と語った。侃はこれほど世に重んじられた。

史論

  • 孫子は「利によって権を制す」というが、侃が山夷の劫掠に乗じて商船を装わせたのがこれに当たる。また「其の攻めざる所を守る」というが、侃が賊の冷口を守る間に武昌を先に備えたのがこれである。また「約なくして和を請うは謀なり」というが、侃が賊の偽りの降伏を見抜き備えたのがこれに当たる。また「人の兵を屈するは戦にあらず」というが、侃の威名がすでに著しく、書を諭すのみで賊が逃げたのがこれである。また「其の必ず救う所を攻む」というが、侃が石頭を攻めて大業の囲みを解いたのがこれに当たる。また「地に争わざる所あり」というが、侃が邾城を守らなかったのがこれである。