出自と自薦
- 馬隆、字は孝興、東平平陸の人。若くして知勇に優れた。泰始年間、伐呉に備え人材登用の詔が出ると兗州が良将として推挙し司馬督に進んだ。
- 涼州刺史楊欣が羌戎との和を失うと隆はその敗北を予言、果たして欣は敗死し河西との連絡が断たれた。武帝が涼州奪還を担う者を求めても応じる者がない中、隆が「臣に任せれば平らげられる」と申し出、方略を自ら決める権限を求めて許された。「勇士三千を募り、鼓を鳴らして西進すれば陛下の威徳で醜虜など滅ぼせる」と述べ、武威太守に任じられた。
涼州平定
- 公卿は横並びの兵制を乱すとして反対したが武帝は退けなかった。隆は強弓を引ける者を厳選し三千五百人を得て「これで足りる」とし、武庫から装備を選ぶ際に武庫令と争ったが、朽ちた武器では戦えぬと訴え三年分の軍需も与えられた。
- 西進の際、敵の樹機能らが険を頼りに前後を挟撃しようとしたが、隆は八陣図に倣った偏箱車を用い、地形に応じ鹿角車営や木屋を車上に組んで戦いながら進み、磁石を道に埋めて鉄鎧の敵の進軍を妨げる一方、自軍は犀の鎧で対抗し「神業」と恐れられた。千里を転戦し多くの敵を殺傷した。
- 音信不通が続き朝廷は隆の全滅を疑ったが、使者が到着すると武帝は喜び「諸卿の言に従っていたら秦涼は失われていた」と語った。隆は武威に至り、多くの部族を降し涼州を平定した。功に対する論功行賞では、衛将軍楊珧の献策で先に加えた爵位に上乗せする形で賞を与えた。
晩年
- 平虜護軍・西平太守として西平に駐屯、南方の異民族成奚の反乱には農具を担がせ油断を誘って撃破した。東羌校尉として十余年、隴右に威信を示したが、楊駿と親しい馮翊の厳舒が隆の老いを讒言して交代させられると氐羌が動揺、朝廷は舒を罷免し隆を復職させ、隆は任地で没した。
史論
- 孫子の「兵に精鋭の先鋒無きを北と為す」の通り、隆は勇士三千を募って涼州を平らげた。「墨を践み敵に随いて戦事を決す」の通り、八陣法に倣い戦いながら進んだ。「兵は詐を以て立ち利を以て動く」の通り、士卒に農夫を装わせ油断を誘って破ったのがこれに当たる。