出自と造船
- 王濬、字は士治、弘農湖の人。大志を抱き、羊祜に才を見出されて用いられた(羊祜の兄の子・暨は濬の奢侈を危ぶんだが、祜は「大才ゆえその欲を満たしてこそ用いられる」と評した)。巴郡太守として、貧困による間引きを防ぐため税を軽くし出産を奨励し数千人を救った。
- 益州刺史に転じ、武帝の詔で大船団を建造。方百二十歩・二千余人を収容する連結船を造り、船首に鷁や怪獣を描いて江神を鎮めた。造船の木屑が長江を蔽って流れ下り、呉の建平太守呉彦がこれを見て孫皓に警戒を進言したが容れられなかった。
呉平定
- 龍驤将軍・監益梁諸軍事に任じられ、上疏して「船を造って七年、老朽化が進み自分も七十歳、時機を逃さぬように」と即時決行を促した。杜預も上表し、武帝は諸方に節度を発した。
- 呉軍が江中に鉄鎖や鉄錐を仕掛けていたが、羊祜が得た間諜情報を活かし、大筏で先に鉄錐を除去させ、麻油を注いだ大松明で鉄鎖を焼き切って進路を開いた。
- 進撃は兵刃を血に染めることなく、三山まで達し、呉の張象の水軍は旗を見て降伏した。皓は肉袒面縛して投降、濬はその縄を自ら解いて京師へ送った。府庫を接収し軍紀を厳正に保った。
- 進撃の途上、杜預・王渾の節度を受けるべしとの詔があったが、預は「濬が建平を落とせば長駆すべき、抑えるべきでない」と書を送り、濬はこれに従い秣陵へ直進、王渾の要請にも「風が良く停泊できない」と応じず進んだ。渾は皓の中軍を破りながら進撃を止めていたため、濬に先を越されたことを恥じ怒り、濬が節度違反だと弾劾した。
- 濬は上表して自らの功と正当性を弁明し、渾が濬の得た財宝を誹謗したことにも反論した。功が大きいのに渾に抑えられ不満を漏らすこともあったが、外戚の范通に「顔回や龔遂のように功を誇らぬべき」と諫められ、濬も「鄧艾の轍を恐れて言を止められなかったのは私の狭量」と認めた。享年八十で没した。
史論
- 孫子の「人の国を毀つに久しからざるを尚ぶ」の通り、濬は三山に直進して孫皓を降した。「上下の欲を同じくする者は勝つ」の通り、濬が建平を下し杜預が節度を施さなかったのがこれに当たる。