出自と官渡での烏巣進言
- 張郃、字は儁義、河間鄚の人。兵を率いて袁紹に帰し、紹は郃を校尉とした。太祖と紹が官渡で対峙し、紹が淳于瓊らに烏巣で軍糧を運ばせ屯させると、太祖は自ら急撃した。郃は紹に「曹公の兵は精鋭、瓊らは必ず破れる。瓊らが破れれば将軍の事は終わる、急ぎ救援すべき」と説いたが、郭図は「郃の計は非、曹公の本営を攻めれば必ず自ら還り、瓊は自ずと救われる」と反対した。郃は「曹公の営は堅固で攻めても抜けぬ、瓊らが捕われれば我らも皆虜となる」と答えたが、紹は軽騎のみを瓊の救援に出し重兵で太祖の営を攻めて落とせなかった。太祖は果たして瓊らを破り、紹軍は潰えた。図はこれを恥じ「郃は軍の敗北を喜び不遜な言葉を吐いた」と讒言し、郃は恐れて太祖に帰順した。太祖は大いに喜び「昔、子胥は早く悟らず自ら身を危うくした、そなたは微子が商を去り韓信が漢に帰したのに似ているではないか」と迎え、偏將軍・都亭侯とした。
諸葛亮との対戦
- 諸葛亮が祁山に出ると郃は特進の位を加えられ諸軍を督し、亮の将馬謖を街亭で拒んだ。謖は南山に拠って城を守らなかったため郃は汲水の道を絶って撃ち大破した。亮が再び出て陳倉を急攻すると帝は驛馬で郃を京都に召し、自ら河南城に出て酒を賜り送り、南北軍士三万と武衛・虎賁の兵を分遣して郃を護衛させ「将軍の到着を待つうちに亮が陳倉を得てしまわぬか」と問うと、郃は亮が孤軍で糧が続かぬと見抜き「臣が到着する前に亮はすでに退くでしょう、指折り数えれば亮の糧は十日と持ちません」と答えた。郃は昼夜を分かたず南鄭まで進むと亮は果たして退いた。詔により京都に還り征西車騎將軍を拝命した。郃は用兵の変化を識り営陣に巧みで戦勢地形を的確に読み、諸葛亮すら憚った。亮が再び祁山に出ると郃は諸將を督し西へ洛陽に至ったが、亮は祁山に退き郃は木門まで追撃、諸葛亮軍と交戦中に飛矢が右膝に当たり薨じた。
史論
- 孫子は「山を絶ち谷に依る」というが、郃が馬謖の下城しない布陣を見て汲水の道を絶ったのがこれに当たる。また「帰師は遏むる勿かれ」というが、郃が亮の帰る軍を追って敗死したのがこれに当たる。