出自と昌豨の降伏
- 張遼、字は文遠、雁門馬邑の人。漢末に董卓の兵に属し、卓の敗後は呂布に属した。太祖(曹操)が下邳で呂布を破ると遼は兵を率いて降り、中郎將と関内侯の爵を賜り、たびたび戦功を挙げて裨將軍に遷った。夏侯淵とともに昌豨を東海に囲んで数か月糧が尽きた際、遼は「豨がこのところ毎回遼を注視し矢もまばらになった、動揺している証だ、誘えるかもしれぬ」と淵に言い、太祖の命と偽って豨を呼び出し「太祖は神武でまさに徳をもって四方を懐柔しており先に降った者は大賞を受ける」と説いて降伏させた。遼は単身三公山に登り豨の家に入り妻子に拝礼し、豨は喜んで太祖のもとへ赴いた。太祖は豨を帰し、「これは大將の法ではない」と遼を責めたが、遼は「明公の威信は四海に著しく、聖旨を奉じたので豨は必ず害さぬと考えました」と答えた。
各地転戦と合肥での大功
- 袁譚討伐に従い、譚破れると別動隊で海浜を平らげ遼東の賊柳毅らを破った。鄴に還ると太祖は自ら出迎え共に車に乗り、蕩寇將軍とした。荊州未定の時期に長社に屯していた出発前、軍中に謀反者が出て夜火を放ち一軍が動揺したが、遼は「一営すべてが反したのではなく、扇動者が動乱を起こそうとしているだけ」と見抜き、反せぬ者は安坐するよう令し、自ら親兵数十人と陣中に立って首謀者を捕え斬った。
- 太祖の孫権征伐の後、遼は樂進・李典らと七千余人で合肥を守った。太祖は張魯征伐に赴く際、護軍薛悌に「賊来らば発せよ」と函に記した教書を託した。孫権が十万の兵で合肥を囲み教書を開くと「孫権来らば張・李將軍は出戦し、樂將軍は守り護軍は戦うな」とあった。諸將は疑ったが、遼は「公は遠征中で救援を待てば必ず敗れる。合流前に迎撃して勢いを挫き人心を安んじてこそ守れる、成敗の機はこの一戦にある」と説き李典も同意した。夜、決死の士八百人を募り牛を殺して士を饗し翌朝大戦、遼は自ら甲を被り戟を執って先登し数十人を殺し二将を斬り、大声で名乗りながら孫権の麾下まで突入した。権は驚き高塚に登って長戟で自守したが、遼が下りて戦えと叫んでも動けず、遼の寡兵を見て幾重にも包囲すると遼は麾下数十人と共に突囲、残された兵の叫びを聞いて再び突入し全員を救出した。呉軍は日中まで気力を失い、権は十余日城を落とせず退いた。遼が追撃してあわや権を捕えかけ、太祖は遼を壮とし征東將軍に拝命、孫権も臣従を称した。
晩年
- 遼は雍丘に屯した後病を得た。孫権が再び叛くと帝は病の遼を舟に乗せ曹休と海陵に至らせたが、権は「張遼は病でも当たれぬ」と諸将に戒めた。この年、遼は諸将と共に呉将呂範を破った。病が篤くなり江都で薨じた。
史論
- 孫子は「利をもってこれを動かす」というが、遼が先に降れば賞を得ると論して昌豨が果たして降ったのがこれに当たる。また「静を以て嘩を待つ」というが、遼が陣中で安坐して軍中の乱を鎮めたのがこれである。また「三軍も気を奪うべし」というが、遼が権の盛んな勢いを挫き呉人の気を奪ったのがこれに当たる。