十七史百將傳卷五 魏徐晃

出自と易陽降伏

  • 徐晃、字は公明、河東楊の人。太祖が鄴を囲み邯鄲を破った際、易陽令韓範が偽って城を降すと見せかけ拒守したため、太祖は晃に攻めさせた。晃は矢文を城中に飛ばし利害を説くと範は悔い降った。晃は太祖に「二袁がまだ破れず諸城が降っていない今、易陽を滅ぼせば他の城は死守するだけで河北の平定は遅れる。易陽の降伏を諸城に示せば皆が靡くだろう」と進言し、太祖はこれを善しとした。

潼関渡河と樊城救援

  • 韓遂・馬超らが関右で反すると晃は汾陰に屯して河東を鎮めた。太祖が潼関で渡河できずにいると晃を召し、晃は「賊は蒲阪を別に守っておらず無策の証、精兵を頂ければ渡って敵の背後を断てる」と述べ、太祖は歩騎四千を晃に授けた。塹柵が未完のうちに賊梁興が夜五千余の歩騎で攻めたが晃はこれを撃退し太祖軍は渡河、馬超らを破った。
  • のち晃は曹仁の関羽討伐を助け宛に屯した。漢水の氾濫で于禁らが水没し関羽が樊の曹仁と襄陽の呂常を囲むと、晃の兵は新兵が多く関羽との正面決戦を避け陽陵陂に屯した。太祖から徐商・呂建ら十二営が続々と増援に送られ、晃は賊が屯する偃城に対し都塹を作ると見せて背後を断つと偽り、賊は屯を焼いて逃げ、晃は偃城を得て連営し徐々に前進、賊の囲みの三丈手前まで迫った。囲頭の屯を攻めると見せて実は四冢を密かに攻め、関羽が自ら五千の歩騎で出るとこれを撃退し、囲みに乗じて突入し大破、賊の一部は沔水に身を投げて死んだ。太祖は「十重の鹿角の囲みを全勝で陥した、私が三十余年用兵し古の名将を聞いても敵の囲みを長駆して破った者はない。樊・襄陽の危機は莒・即墨より甚だしかった、将軍の功は孫武・穰苴を超える」と称え、摩陂まで七里出迎え酒宴を開いた。諸軍が集まった際、晃の軍だけが整然と陣を保ち動じなかったため、太祖は「徐将軍はまさに周亜夫の風がある」と嘆じた。

晩年

  • 晃は常に遠く斥候を出し勝てぬ態勢をまず固めてから戦い、追撃の際は士に食事の暇も与えぬほど徹底した。常に「古人は明君に遭えぬことを患えたが、私は幸いにも遭えた、功をもって尽くすべきで私誉は要らぬ」と語り、広く交わって援けを求めることをしなかった。太和元年、薨じた。

史論

  • 孫子は「人の城を抜くも攻めるにあらず」というが、晃が矢文を飛ばして韓範を降したのがこれに当たる。また「虞せざるの道により其の戒めざる所を攻む」というが、晃が賊が蒲阪津を守らぬのに乗じて密かに渡ったのがこれである。また「善く攻むる者は敵その守る所を知らず」というが、晃が囲頭を攻めると見せかけて密かに四冢を攻めたのがこれに当たる。また「軍の擾るは将の重からざるなり」というが、晃の軍営が整然とし太祖の巡視でも将士が動じなかったのがこれである。