十七史百將傳卷四 後漢虞詡

出自と涼州放棄論への反対

  • 虞詡、字は升卿、陳國武平の人。はじめ太尉李修の府に辟召され、郎中を拝命した。永初年間、羌胡が反乱して并州・涼州を荒らし、大將軍鄧騭は軍役の費用がかさむことを理由に涼州を放棄し北辺に力を集めようと公卿を集めて議した。鄧騭は「衣が破れれば一部を裂いて他を補うようなもの」と述べ、議者は皆同意した。詡は李修に説き、「先帝が開拓した土地を小費を惜しんで棄てれば、涼州放棄はやがて三輔を境とすることになり、園陵まで危うくなる。関西は将を、関東は相を出すというが、涼州の兵は他州より優れる。羌胡が三輔に深入りしないのは涼州が背後にあるからで、涼州の人が漢に忠実なのも漢に属しているからだ。もし涼州を棄て住民を移せば、必ず異心を生み、豪雄が結集して東進すれば賁育のような勇者や太公のような将でも防げまい」と論じ、放棄論を退けた。李修は納得し四府を集めて議を改めさせ、詡の意見に従わせた。西州の豪傑を掾属に辟し、涼州の牧守・令長の子弟を郎に取り立てて慰撫した。鄧騭兄弟はこれを恨み、以後吏法をもって詡を陥れようとした。

朝歌長としての賊平定

  • 朝歌の賊寧季ら数千人が長吏を攻め殺して連年屯聚し、州郡も制圧できなかったため、詡は朝歌長に任じられた。旧知の人々は「朝歌に行くとは気の毒だ」と弔ったが、詡は「志は易きを求めず、事は難を避けぬのが臣の務め。盤根錯節に遭わねば利器の切れ味は分からぬ」と笑って応じた。赴任の途上、河内太守馬稜に「儒者なら朝廷で謀るべきでは」と言われると、詡は「朝歌は韓魏の郊、太行を背に黄河に臨み敖倉に近いが、賊は倉を開いて衆を募る知恵もなく恐れるに足らぬ。ただ兵は権謀を厭わぬので、手綱を緩めてほしい」と答えた。着任後、攻劫を働いた者を上等、傷害・窃盗を次、喪に服さず家業を怠る者を下等とする三科の募集で壮士百余人を集め、罪を許して賊中に紛れ込ませ誘引・伏兵で数百人を斬った。また貧者に賊の衣を仕立てさせ裾に糸で目印を付けさせ、市里に出た者を吏に捕えさせたため、賊は恐れて四散し詡を神明と称した。

武都太守としての羌撃退

  • のち羌が武都に侵寇すると、鄧太后は詡の将帥の才を認め武都太守に任じた。羌は数千の兵で陳倉・崤谷に詡を阻んだが、詡は軍を停めて進まず、上書して援兵を請い到着を待つと言いふらした。羌がこれを信じ分散して周辺の県を略奪し始めると、詡は昼夜兼行して百余里を進み、吏士に竈を日ごとに倍増させて敵を欺いた。孫臏の減竈と逆の策を問われると、「敵多く我少なければ緩行はかえって追いつかれる、速進すれば敵は測りかねる。竈が増えれば郡兵の来援と見て速追を憚る」と答えた。郡に着くと兵は三千に満たず、羌の大軍一万余が赤亭を数十日囲んだ。詡は強弩を隠して小弩のみ用い、羌が矢の弱さを侮って迫ったところで二十張の強弩を一人に集中させて必中させ、羌は大いに驚いて退いた。詡は城を出て追撃し、翌日は東郭門から出て北郭門へ入る行軍を繰り返し衣を替えて兵数を欺いた。羌が動揺したところで浅水に伏兵を置いて敗走を掩撃し、賊は大破されて益州へ南走した。詡は地勢を占って営壁百八十か所を築き、流民を招いて貧者を賑わせ、郡は安定した。

漕運の開通と晩年

  • 以前は運道が険しく驢馬による輸送は五分の一しか届かなかったが、詡は自ら吏士を率いて沮から下辨までの川谷を巡視し、石を焼き木を伐って開削し漕船の道を開いた。水運が通じたことで年に四千余万銭が節約された。永和初、尚書令に遷り、その職で卒した。臨終に子の恭へ「君に直道を尽くし恥じるところはないが、朝歌長で殺した賊数百人の中には冤罪の者もいたはずで、その後二十余年子孫が増えなかったのは天の罰であろう」と語った。

史論

  • 孫子は「強弱は形なり」と説くが、詡が竈を増やして強を示し羌が迫れなかったのがこれに当たる。また「人を形せしめて我は形無し」というが、詡が衣を替えて兵数を悟らせなかったのがこれである。